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トップ > 1093 > 1093 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2009年1月10日 1時)
仮称・沢田遺跡/阿賀野市
今回に限り近くの集落名を引用して「沢田遺跡」とした。
遺跡の北側には帯状の水田があり阿賀野川の旧河道によって
開析されたと思う微高地上に立地する。標高20m前後だろうか。
現況は畑地である。
阿賀野川流域の遺跡踏査で、未知の遺跡探しをしていたが
遺跡のありそうな場所を地形を判断して歩いていた。
偶然、土器の小片が数片落ちていたが、あまりにも小さく、
摩滅していたため時期的なものはわからなかったが、
少し大きめの手のひらサイズの土器片を発見。
土器製作過程において、内面に須恵器甕に見られるような「あて具」痕
と外面に「敲き目」痕のある酸化炎焼成のロクロ土師器を発見。
一見して長釜か!と思ったが、土器の湾曲具合から推察して
鍋のようである。中世には鉄器の普及で土器製の鍋は姿を消すが、
古代には土器の鍋が一般的であった。
新潟県内の北部では須恵器の手法を持つロクロ土師器は8世紀初頭に
姿を見せ始め、この頃に非ロクロ土師器は姿を消す。
破片の為詳細不明ながら、概ね本資料は平安時代のものだろうか。
遺物の散布状況は希薄なうえに、遺跡の性格を1点の土器片から
推定するには、危険すぎる。今後の踏査で新たな発見に期待するしかない。
作者:
更新日:2009年1月9日 22時12分
瓢湖(ひょうこ)/阿賀野市
外城大堤(とじょうおおつつみ)、外城水溜ともいう。
昔大小2箇所の池が、瓢箪形をしていたので「ひょうこ」と呼んだ。
寛永2年(1625)、五頭山を水源とする大荒川が干ばつで干上がり、
その影響で田畑は水不足となり被害が出た。
当時の新発田藩は、水不足解消の為、
寛永3年(1626)大荒川の水を引いて潅漑用のため池を造成する工事を
開始した。
13年の月日を費やして寛永16年完成。
新発田藩と溝口内記知行所(池之端領)(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/24467186.html)の入会地であったが、
地元の江口栄右衛門に委ねられた。元禄13年水漏れがひどくなり、
改修工事が行われ、
文久4年(1864)水原町島屋喜左衛門が堤防工事と一緒に
桜の木を植樹した。
しかし、桜の根が堤防を弱くしてしまったため、明治7年桜を伐採。
しかし、その後再度、桜が植樹され桜の花の開花時期には
沢山の見物客が訪れるようになった。
昭和25年には、地元の吉川親子の努力で
シベリヤから越冬する白鳥などの野鳥の餌付けに成功し、
現在は白鳥の渡来する池として広く県内外に知られるようになった。
作者:
更新日:2009年1月8日 20時0分
高徳寺の中世石造物群/阿賀野市
鎌倉時代には弘安6年(1283)4月5日の大見行定譲状に
「白河庄猿田村温川条内次郎■(丸カ)地頭職」とある。
山浦氏(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/29310587.html)の
山浦条は4箇条からなり、旧笹神村域にあった。
次郎丸周辺の山中には法華山遺跡(旧高徳寺跡)、金鉢山遺跡など
中世墳墓遺跡がある。境内や墓地には五輪塔残欠や石仏がいくつか
散見される。
板碑はあらかじめ平滑にした上に
弥陀三尊のキリ−ク、サ、サクを刻み蓮台は省略されて無蓮台である。
14世紀後半のものと思われる。
隣に、その板碑の説明板が設置されている。
墓地の地蔵堂付近にも、無縫塔とならんで板碑がある。
こちらは、長く伸びる蓮弁の蓮台の上に7弁の受花を持つもので
鎌倉時代末のものであろう。
梵字は釈迦如来(アク)を刻む。
新潟県北部で、同様の蓮台の特徴を持つ板碑は関沢の紀年銘を持つ板碑で、
嘉暦2年(1327)の板碑(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/30941553.html)で見受けられ、
14世紀第2四半期頃のものであろう。
他に同時期頃のものと思われるものが
新発田市貝屋宝蔵寺跡の板碑(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/24244579.html)にも類例がある。
境内入り口付近にある石仏(向かって左側)は
出湯系の阿弥陀如来坐像である。
寺の近くの水田には、中世の土器片が1点確認できた。
引用参考文献
1986「新潟県の地名」日本歴史地名体系15 平凡社
作者:
更新日:2009年1月7日 20時47分
畑江遺跡/阿賀野市
発掘調査は行われていないが、
表面採集によって石器や土器が確認されている。
現況は畑地で、自分が高校生の頃周辺の散策をしている際
その場所が工場の造成工事によりかなり削平されていた記憶がある。
採集品が地方史に紹介されている。
地方史に縄文時代中期と考えられている土器、石鏃の無茎鏃、有茎鏃、
腹面に1次剥離面のある縦型石匙、尖頭器がある。
尖頭器の実物は自分は実見していないが、
旧石器時代終末期から呪文時代草創期に盛行する有舌あるいは
有茎尖頭器の類ではないだろうか。
また、縦型石匙についても縄文時代でも古い段階のものと思う。
引用参考文献
平成15年「笹神村史」資料編1 原始 古代 中世 笹神村
作者:
更新日:2009年1月6日 23時59分
貝喰の塚と三度栗遺跡地/阿賀野市
上野林丘陵と呼ぶ洪積世台地がある。
鳥屋ヶ峰丘陵の西側に街道があり、
貝喰集落の北側入り口付近に紹介する塚がある。
周囲は畑地で、高さ1m前後の盛土が施されていて、
頂部付近に松の木が2本ある。
塚の周囲は一部、後世に削平されているが、
ほぼ原形を保っているようである。
塚上南側に角柱塔婆が建てられている。
塔婆には「念仏供養塔」、
側面に「文化3年」(1806)の文字が刻まれている。
畑仕事にやって来た人がいたので、塚の伝承等尋ねてみた。
「この塚は戊辰戦争の時の戦死した人の供養の塚」との返答。
戊辰戦争は明治元年(1868)の出来事で、塚の上にある石塔の年代が
文化3年とすると、
石塔建立時にはすでに、塚状を呈していたはずであるから、
塚の年代と戊辰戦争の話は整合性は無い事になる。
また、別の地元の方に聞いたが、旅をした人がこのあたりで、
亡くなったので埋葬したのでは?と、様々な言い伝えがあり、
真実はよくわからない。
最終的には、自分の推測だけになってしまうが、
塚上に「念仏供養塔」の文字がある石塔がある事から、
同様のものが
新発田市宮古木に類例(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/23804018.html)があり、
信仰塚のひとつだろうか?
塚の西向かいには
考順寺(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/37401645.html)跡
の伝承がある、三度栗遺跡地がある。
作者:
更新日:2009年1月5日 21時47分
真宗・東港山西厳寺/新潟市
茶臼山城主・手島清蔵景行は天正7年(1579)に、
おきた御館の乱(上杉謙信の後継者争い)で敗退し、
加賀に追ってから逃れ、さらに島見に逃れて来たという。
その後、栄玄と改名し当山の開祖となった。
天正18年(1590)、京都の本願寺より現在に伝わる西厳寺の寺号を授か
った。
昭和50年(1975)に新潟東港ができると当初、手島山だった山号を港に
ちなみ「東港山」と改めた。
引用参考文献
「北区のお宝マップ」豊栄博物館
「新潟県の地名」日本歴史地名大系15 平凡社
作者:
更新日:2009年1月2日 23時50分
山本新のオダイシサマ/阿賀野市
熊野神社の東側の杉林の中に3基の石造物があった。
近くの畑仕事をしている人に聞いたら何かわかるかもしれないと思い,
聞いてみた。
その石造物は「オダイシサマ」と、呼んでいるそうで
その付近に寺があったという。
盆、正月の頃、お供えものをあげるのだそうだ。
色々な願い事をするのか聞いてみたがよくわからないそうである。
地元の方は90歳近い方で、子どもの頃、
その石仏があって、もう少し顔の鼻や口がはっきりしていたという。
袈裟を着て座っているようで、密教法具を手にもっている様子。
この石造物が「オダイシサマ」と呼ばれているとするという。
地元の人に聞いても、それ以上の事はわからなかったが、
一般論的な事を述べれば「オダイシサマ」=空海の尊称で、
弘法大師をさす。
空海は真言宗の開祖で奈良時代末期の宝亀5年(774)、
四国の讃岐国(香川県)で生まれ、
父はその地方の豪族・佐伯(さえき)氏である。
後に、入唐し、多くの経典を学び、帰国して日本に密教を伝えた。
空海は承和2年(835)、死期が近づいた事を知ると、
五穀を断ち入定した。
49日後高野山奥の院の大師御廟に葬られたという。
真言宗では、空海が今もなお、入定したまま生きていると
信じられているという。今もなお空海が生きていて、
徳をもって人々を救っているという。
「オダイシさま」の石仏は、そう言われてみれば、
なんとなく像容が空海の絵に似ているようにも思えるが?気のせいだろうか。
引用参考文献
1992「密教の本」学研所収・・・高野山大宝寺蔵絵図
作者:
更新日:2009年1月1日 23時50分
大塚・河内神社の中世板碑/村上市
本神社は創立年不詳。
祭神は、後白河院ノ後胤繁治卿 天照大神。伝承では雲上佐市郎公の縁者の
繁治卿を祀るという。
大塚・高御堂・潟端3集落の産土神。集落名に「大塚」も、
繁治卿を葬ったという字「大坪」にあった塚が地名の起源とされているが、
現存しない。
中世には、慶長瀬波郡絵図には「大国但馬分 おおつか村」とあり、
本庄領であった。
本神社の境内には、セメント製の祠があり
庚申塔、八将神塔、金毘羅大権現塔、八幡神社の石造物に
混ざって、花崗岩製の中世板碑が1基ある。
バン(大日如来)、蓮台と地蔵菩薩(イ−)を刻む。
本板碑の蓮台相から推定して、
縦長5弁の蓮台で14世紀代の鎌倉時代末期頃のものと思われる。
近くの水田には、白鳥の群れが餌をついばむ姿が見受けられました。
引用参考文献
昭和60年「神林村誌」神林村
昭和53年「角川日本地名辞典」新潟県15 角川書店
1986「新潟県の地名」日本歴史地名大系 平凡社
作者:
更新日:2008年12月30日 9時44分
横峰遺跡/阿賀野市
立地する。
谷を挟んでA、B地点がありほ場整備事業により事前に、
昭和49〜50年に安田町教育委員会により発掘調査が行われた。
A地点では縄文晩期後半の円形石組炉、周溝を持つ円形プランの住居跡1基、
土坑群が検出された。遺物は加曾利B式、
大洞式C2〜A期、弥生中、後期土器、石器は石鏃、
ピエス・エスキ-ユ、両頭石斧、球体土製品、土製紡錘車がある。
B地点では、縄文中期中葉の住居跡15基、土坑4、晩期土坑1、
土器埋設遺構1が検出された。
住居跡は地床炉を持つ円形のもの、
細長い土器敷き炉・石囲い炉を持つ卵形プランの住居跡が検出された。
土坑群を中心に環状を呈していた。
火焔形、王冠形土器がある。
新保〜新崎式土器が出土している。
B地点では
経塚(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/45861756.html)
も検出された。
引用参考文献
昭和58年「新潟県史」資料編1 原始・古代1
作者:
更新日:2008年12月28日 19時34分
横峰経塚群/阿賀野市
丘陵地(上野林丘陵あるいは庵地丘陵と呼ばれている)での
縄文時代の遺跡との複合遺跡である。
丘陵を開析谷が入り込んでいて、
その谷の北側の台地の段丘崖の上に立地している。
経塚の存在は、地元の人も知る人は殆ど無く、
僅かに周溝を巡らした小山が3基あったという話がある位である。
ほ場整備事業により遺跡が破壊される事になり、
事前に安田町教育委員会が主体となり昭和49年(1974)から、
調査が行われた。
今回は中世の経塚の内容について、紹介する。
尚、出土品は県指定文化財に指定されている。
調査開始時点には、縄文中期、晩期の調査で偶然発見されたものである。
便宜上、「横峰経塚」と命名され、
発見順に「1号経塚」「2号経塚」と呼ぶ事になった。
遺構
周溝を除いて、外部施設は全て破壊され、
調査時の聞き取り調査で2m前後の小山状を呈し、
その北側半分に幅1m程、深さ60cm前後の溝が巡っていたとの
証言がある。・・・1号経塚と推定されている。
1号経塚
周溝のみ検出され、その他の外部施設は破壊され失われていた。
周溝は直径8.5m〜9mを測る歪んだ円形と推定されている。
東南側がやや不明瞭で、崖上に本経塚があることから
浸蝕された場所にあることから、
崖面の後退が原因によるものである。
残存周溝は最大幅65cm、最小50cm、底部幅最大45cm、最小25cmであり
殆ど30cm前後である。埋納穴は円形土坑で、
底部70cm、上部98cm、深さ43cmで、穴の中央部付近に陶製経筒が直立し、
周辺に副葬品が検出され、特に北側半分の底部に集中して確認された。
5〜15cm程の川原石が24個出土し、
南面側底部に集中している。図中の(イ)=経筒、
(ロ)=藤花松鶴鏡は裏面を上に向けていて下に櫛が置かれていた、
(ハ)=山吹双鳥鏡は表面を上にむけて穴底部に置いてあった。
2点の青銅製和鏡はともに白色和紙で包まれていた、
(二)=木製あるいは竹製の繊維痕があり、全面に薄い銀箔が残存していた。
その一部は(ロ)の上部に接している。
(ホ)=刀剣類、(へ)=小礫で銀箔痕がある。
2面の和鏡の中間地点に26個の木製数珠、長さ3cm程の紙縒断片が認められた。
藤花松鶴鏡は「仁安カ□年カ」の墨書がある。
2号経塚
1号経塚に接して構築されていて、
沢に突き出た台地の末端に立地する。
外部施設では周溝の1/2程度だけ検出されたに過ぎず、
埋納穴を中心として北東から西南方面にいたる部分である。
恐らく1号同様谷の浸蝕によって消滅したものだろう。
長径12.2m、短径11mを測り楕円形をしてい周溝である。
一部の溝は1号の周溝と交わる。溝内に数十個の拳大の礫群と、
中世陶器片があったが、塚構築以後の流入物と考えられている。
埋納穴はかろうじて底部だけが残存したに過ぎず、
それより上部の封土は失われている。埋納穴底部は歪んだ円形で
最大185cm、最小165cm、南北170cmを測る。
残存深さは中心部で13cm、大半は10cm前後である。
内部の大部分は木炭と河原石を充填してあり、
周辺は茶褐色の砂質粘土で覆われていた。
周辺部全体に、多数の副葬品が埋納されていた。
(イ)=青銅製五鈷鈴で把手部分に恐らく白和紙がが巻かれて
真横に置かれていた。
(ロ)=青銅製素文和鏡で、表面を上にして置かれていた。
(ハ、二、ホ)=2個の青白磁製合子片でハは、
蓋が5個に割れて、身の上に被さったままの状態で出土した。
(へ)=青白磁皿断片である。
(ト)=短刀の下に杉皮あるいは檜状の皮が敷かれていた。
(チ)=漆器片、(リ)=水晶珠、(ヌ)=ガラス珠が出土した。
礫石群は総数240個あり、
8〜10個に墨書が認められ「伴 覚 宗」
「■貞円」「如カ、■、心、為」、「遊、有」「加」
「長茂」あるいは「長成」、などの文字が見られるという。
他に火舎などが出土した。
1号経塚出土経筒
ビ−ル樽を思わせる珠洲焼の経筒で蓋も、同質のものである。
器高32.5cm、口径18.8cm、底径17.8cmである。
胴部に最大径があり23cmである。口唇部は丸く、内湾する。
器内外面に輪積痕があり、その上ロクロによる横なで痕を有する。
器外面に全般的に条線状の叩き目痕がある。
胎土は粗く黒雲母、長石が認められる。
蓋は筒部分と同質で浅鉢状を呈する。
ロクロ水挽き整形で仕上げている。ロクロからの切り離しは、
静止糸きりによると考えられているが一見して
回転糸きりの要素もあるという。
本経筒と同様のものは、岡山県永小山経塚、
福島県袋山寺経塚で認められるという。
年代観は1号経塚は平安時代末期、2号経塚は最終末期に構築された可能性が
考えられている。
近くには、時期が似ている大坪遺跡
(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/34917476.html)がある。
引用参考文献
昭和54「横峰経塚群」安田町教育委員会
「新潟県史」通史編1 原始 古代 新潟県
作者:
更新日:2008年12月26日 19時22分