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感謝!ありがとうごじました
読者の皆さん、
小生のつたないブログを読んでいただき
さらに、多くのnice及びコメントをいただき
心から感謝しております。
諸事情により、数ヶ月、休まざるを得なくなり
まことに残念ですが、休みますので
よろしくお願い申し上げます。
皆様方には、良き新年をお迎えされますよう
祈念します。
作者:一真
更新日:2008年12月25日 9時7分
PR: フラワースクール新宿駅徒歩1分
いずれは都会のど真ん中ー東京原宿・表参道一帯をかやぶき屋根に!

かやぶき屋根工事―普及めざして試行錯誤
「かやぶき建築はノスタルジーの対象でなく新時代にも通用する工法だ」。中尊寺(岩手県平泉町)や兼六園(金沢市)など全国の文化財補修に携わる熊谷産業(宮城県石巻市)社長の熊谷秋雄さん(44)はかやぶきを用いた建物の普及に知恵を絞る。材料となるヨシの育成から加工、工事・補修まで一貫して手がける国内唯一の企業だ。
欧州では環境に優しいとして、家屋や商業施設での採用が増えているが、国内では減少の一途。割高なうえ、安全面から法規制の対象になっていることなどが背景にある。
懸念を払拭するため、調達コストの引き下げや工法改良を試行錯誤する。行政に規制緩和を求めるとともに、「耐火性に劣るのでは」との声には、かやぶきの下に耐火ボードを敷いて火災の危険を小さくすることを提案している。
北上川流域に10キロ以上にわたって生育するヨシの刈り入れは今月半ばから本格化した。
「いずれは都会のど真ん中、例えば東京の原宿・表参道一帯をかやぶきに変えたい」。そんな野望を遂げるべく、日夜研究を続ける。
日本経済新聞(2008.12.22)<街かど人物館>より転載。
作者:一真
更新日:2008年12月24日 7時38分
古民家を改修ー句会などの文化拠点に!

古民家を改修―句会など開き文化拠点に
奈良県五條市に先月、江戸時代の古民家を修復し、文化拠点にした「藤岡家住宅」が開館した。運営する特定非営利活動法人「うちのの館」理事長の田中修さん(79)は「夢と楽しみを持って集まり、喜びと感動を持ち帰ってほしい」と話す。
吉野名産「柿の葉ずし」大手の社長を6年前に退き、吉野川での梁(やな)漁復活や市内の歴史的街並みの保存など地域活性化に取り組んできた。長年空き家となっていた同住宅を「修理して寄付したい」と茨城県在住の現当主が申し出たものの、維持費の問題から市が辞退したと聞き、「朽ちさせるのは忍びない」と地域に呼びかけて民間による運営にこぎ着けた。約千三百平方㍍の敷地に母屋など7棟が建ち、国の登録有形文化財になった。
広々とした邸内では句会や文化講座が催され、活況を呈している。
先々代当主の藤岡長和氏(1888-1966)が俳人で、高浜虚子らとの親交があったことから、短冊など多くの文学資料を所蔵。「文学に関心ある多くの手で後世に伝えたい」と、資料整理などのボランティアを募っている。
日本経済新聞(2008.12.22)<街かど人物館>より転載。
五條市が、維持費の問題で辞退し、国が登録有形文化財。維持費レベルでしか、考えられない五條市の教育委員会の質が疑われる。
作者:一真
更新日:2008年12月23日 8時52分
来年、閉店予定の”池袋三越”
長年、池袋界隈の消費者から
利用されてきたデパートが
”ブランド”より”品質と低価格”という消費者の
意識の変化の中で
経営の悪化ににより閉店する予定だという。
息子の制服は、池袋の三越であり、
成長盛りで、丈が短くなると注文に行ったことを思い出す。

クリスマスツリーの明かりの中で浮かび上がった三越デパート。 来年はヤマダ電機というが。。。

三越デパート内のクリスマスツリー。
社員が着替えするビルから出てきた、帰りがけの女性社員の「次の行き場所、決まった?」「子会社へと行ってもねぇ~」という会話が聞こえてきた。
作者:一真
更新日:2008年12月22日 8時42分
旧麻生鉱業に捕虜300人ー外務省事実確認せず否定!
人間にとって大事なことはいくつもあるが、
生命の問題に直面している人にとって
大事なことは、先ずは、血の通った温かい激励である。
金融バブルが弾け、失業で苦しんでいる人々に
温かい激励の言葉より、就職についての説教で有頂天に
なっている麻生首相にはあきれるばかりである。
彼は、あくまでも血も涙もない資本家の考えである。
彼は幼児時代、使用人に対して
「貧乏である使用人とは話したくない」という名言を述べた
ことで有名である。
その麻生首相の親戚である旧麻生鉱業における捕虜の
強制労働について明らかになった。

旧麻生鉱業に捕虜300人!ー「炭坑に収容所」
外務省 事実確認せず否定
第二次世界大戦中、麻生太郎首相の親族が経営していた旧麻生鉱業(福岡県)の炭坑に300人の外国人捕虜がいたことを示す公文書が厚生労働省で見つかった。2年前に海外メディアがそれに関して報じ、外務省は「そうした情報を得ていない」と反論していたが、そのずさんな対応が問題となりそうだ。
民主党の藤田幸久参院議員の求めで開示された公文書によると、オーストラリア人190人、英国人101人、オランダ人2人が1945年5月10日から終戦の8月15日まで吉隅炭坑(同県桂川町)の捕虜収容所にいた。このうちオーストラリア人2人は死亡した。
同年2月22日に麻生鉱業が杉山元・陸軍大臣あてに出した「使用期間1年」「労務時間2交代12時間」を条件に捕虜の使用許可を求めた文書も開示された。公文書は旧日本陸軍。俘虜情報局が所持していたが、その後の組織改編に伴い、1957年に当時の厚生省が引き継いでいた。
外務大臣だった麻生首相の指示で反論
こうした外国人の強制労働問題は2006年11月に「インターナショナル・ヘラルドトリビューン紙」が報道。「戦時中に強制労働させられた中国人が、日本政府になどに補償を要求」とする福岡発の記事に「麻生鉱業がアジアや西欧からの強制労働者を使っていた」との記述があった。「ニューヨーク・タイムズ紙」からの配信記事だったため、当時、外務大臣だった麻生首相の指示で、外務省は在ニューヨーク総領事館のホームページで反論「証拠なしに(麻生鉱業で強制労働者を使っていたとする)判断をすることは理不尽だ」と強制労働を否定していた。
公文書が明になっても外務書は逃げるのみ
公文書が明らかになり、総領事館は今月、反論を削除したが、それにしてもずさんなのは2年前のその反論だ。18日の参院外交防衛委員会で、この問題を追及した藤田氏に対して、外務省は「確認したが、情報が得られなかった」と逃げた。だが、厚労省は今になっての公文書開示について「事案がなかったために、調査してこなかった」とコメント。
つまり、外務省は当時、厚労省に確認せずに反論していたことになる。しかも、公文書のうち「俘虜取扱の記録」は既に専門文書の図書館で公開されていた。この資料だけでも、麻生鉱業の捕虜受け入れの事実は明らか。さらには、その後に一部メディアが元捕虜を捜し出し、インタビューに成功。死亡した2人も特定されている。
厚労省は調査してこなかったことを認める
早稲田大学院客員教授の内海愛子氏は、外務省「知っていて無視したのか、全く調べなかったのかー。いずれにしても、いいかげんな対応だった」とあきれる。
日本は捕虜問題についても対応するとしたポツダム宣言を受諾。さらには、捕虜の取り扱いを規定したジュネーブ条約にも加入した。それにもかかわらず、厚労省の捕虜に関する公文書は戦後、60年以上にわたり放置され、外務省も何ら調べてこなかったことが、今回、明らかになった。
藤田氏は「捕虜問題への対応は国際社会で信頼得る上で、重要な外交課題だが、それが欠如いていた。今後もこの問題について追及していきます」と話した。
東京新聞(2008.12.20)「ニュースの追跡」より転載。小見出し(一真)
作者:一真
更新日:2008年12月21日 9時30分
林業再生 成功例に学ぶ!

森林を守るー林業再生 成功例に学ぶ
間伐材が行き届かず荒廃が進む人工林。この状況を打開しようと林野庁は作業道建設や間伐などに対する補助金を拡充するとともに、間伐の効率が上がる「提案型集約化施業」を推進している。その先進モデルとして取り上げられているのが京都府中部の南丹市にある日吉町森林組合だ。
日吉は管内森林面積(約1万700㌶、うち人工林約4300㌶や従業員数(24人)を見ると平均的な組合だが、提案型集約化施業を軸に積極的に間伐を展開している。2003年から05年にかけては毎年300-370㌶を間伐。今年は集約化20カ所で間伐面積約200㌶、木材資産量約1万平方㍍を予定する。
「この10年で管内の間伐は一巡した」と理事兼参事の湯浅勲さん(57)。間伐に本格的に取り組んだのは1997年、日吉ダム建設関連の公共工事がなくなったのが原因だった。「地域の森林が荒れているからそれならやろうと考えた」という。当初「呼びかけても反応は鈍かった」ため所有者に森林の状態を写真撮影して施業プラン(見積書)を提示する提案型施業を始めた。「みんな山の荒れた状況を知らなかった。プランを見せるとほとんどが契約してくえた」
大勢の小規模所有者に施業を提案し、その合意を得ながら一括して施業を代行する集約化も徐々に広げ、機械も一台一台買い増した。02年からはそれまで現場に切り捨てていた間伐材を搬出して売却する今のやり方を実行した。「集約しても捨てては意味がない。搬出することで売り上げを所有者に戻せるようになり、搬出するために作業道整備も進んだ。作業道は一度造れば次の間伐から開設費が不要になりコストが下がる」と湯浅さん。今では人工林の4割で作業道を建設、10年以内に完了するという。
「すべて手探りでやってきた。働く意欲のわく組織づくりを続けてきたから軌道に乗れば次々と改善が生まれた」と振り返る。
今では「日吉方式を学ぼう」と全国の森林組合などから視察や研修が絶えない。10月7日からは施業プランナーのための「ステップアップ研修」が開かれ、昨年度始まった育成研修を終えた組合から約40人が参加。今回初めてプランナーだけでなく組合幹部や経理、現場の責任者も出席した。「日吉のやり方を理解しそれぞれの地域でアレンジしてもらいたい。そうすれば間伐が進み林業も再生する」と湯浅さんは語る。
「日本経済新聞」(2008.11.6)-「広角鋭角」より転載。
作者:一真
更新日:2008年12月20日 9時23分
森林を守るー採算確保への間伐材集約!

森林を守るー採算確保への間伐集約
大分県日向市で林業を営むマルマタ林業。代表の合原真智子さん(60)ら合原家や会社が所有するスギ、ヒノキの山林約1030㌶のほか、他の山林所有者の約300㌶を管理し、伐採した間伐材などを販売する。
面積10㌶未満の小規模所有者が約64%を占める日本林業の中で、管理面積が九州最大規模の同社はかなり恵まれた経営環境にあるが、実際はどうなのか。
合原さんは「木材価格が安く林業経営者は意欲を失っている。大分県だけでも過去4年間で林業経営者協会の会員が48人から30人に減った。うちでも間伐材などに対する国や自治体の補助金がなければやっていけない」と強調する。林業に従事するのは合原さんと3人の社員。手分けして定期的に所有林などを調査。植林や下刈りといった保育や間伐、作業者の建設が必要になれば、自分たちで施業計画を立てて見積額を出し、保育は個人の林業従事者に、間伐などは素材生産業者に発注する。
「指示通りに間伐が行われているか、壊れないよう道がきちんと造られているかなど、施業中と施業後に入念にチェックする」。合原さんの女婿で社員の緒方学さん(28)はいう。
保育や間伐は5年計画に沿って実行。間伐はどこも10年に1度は行うようにしている。問題は毎年のように起こる台風被害。「山が県内だけでなく熊本や宮崎にもあるので、風倒木の処理などに時間がかかり計画がずれている。手入れ不足の山が残っている」
今年から新たな施業の集約化に乗り出した。これは所有地の周辺にある林の持ち主に間伐などの施業を提案し、その合意を得て一括して間伐するやり方。「近くに間伐遅れの林が随分目に付く。作業道を付けて一緒にやったほうがずっと間伐の効率がいい。今年は10人の所有者に施業プランを提案し計20㌶を集約する合意を得た。目標は年間40㌶、毎年進めたい」
経営強化するために現在「(自前で間伐などを行う)2、3人からなる作業班の設置」も検討している。「集約化を軌道に乗せて間伐などの仕事量を確保した上で機械化を進めたい。作業班を設けるには自前の機械をそろえ機械化を進めないと採算がとれない」と緒方さん。
「3年後をめどに団地化や機械化、作業班を実現し、補助金に頼らず素材生産で稼げる林業にしたい」と意欲を見せる。
「日本経済新聞」(2008.11.5)―「広角鋭角」より転載。
天下りと補助金・助成金付けと、国民の血税を貪ることが当たり前という認識に、反省もせず、相変わらず国民の血税や年金・雇用保険の莫大な利子に集る官僚や公益法人は、「補助金に頼らず素材生産で稼げる林業にしたい」という
経営思想に基づいた努力に見習うべきだと考えるが、麻生首相は、公務員制度の見直しも反古にし、天下り規制にも
消極的である。国民を犠牲にする政治体制を、国民の手で、抜本的に見直しを図る必要があるといえよう。
作者:一真
更新日:2008年12月19日 10時13分
解体工事が始められた民家”石井家”
本ブログでも紹介した
狛江市指定有形文化財の民家”石井家”が
移築のために、解体工事が始められたていた。
解体及び調査の中で、石井家の建築の歴史的足跡が
具体的に明らかになっていく。

解体前の石井家

解体・調査が始められた石井家内部


石井家は江戸時代中期以後和泉村の名主を務めた家で、その主屋は18世紀末、長屋門は文化年間(19世紀初)、土蔵は明治初期である。この3棟は狛江市の文化財に指定されたが、今年11月から解体・調査工事が始められ、昭和記念公園の民家園に移築される。
現在、里山の民家が野放しにされ、解体されていく一方である。日本文化の象徴である民家が消滅していくことに、「わが国では信じられない、わが国では、自国の文化という狭い視点でなく、世界の人々の文化ということで、歴史的建築物(日本でいう民家なども含めて)の保存を、国、自治体、市民で行っており、この保存工事の中で、次世代を担う技術者が増えている」(イタリアの建築家)と述べているように、日本以外の先進国では、世界的文化という視点で保存事業が、国を上げて努力されている。今からでも遅くない、日本政府は、天下り職能団体に、独占的に歴史的建築物の保存事業を保証し、莫大な助成金を落としているという無駄なことを止め、また、競争入札を事実上骨抜きにする制度を廃止し、里山の民家保存についての国家的戦略について検討することではないだろか。
作者:一真
更新日:2008年12月18日 8時55分
磁器透かし絵!




磁器透かし絵
プロイセン・オイレンブルク伯爵献上
磁器・ガラス 縦13.7 横18.7 プロイセン19世紀 東京・徳川記念財団所蔵
プロイセンの東アジア遠征隊の隊長フリードリッヒ・アルプレヒト・オイレンブルク伯爵(1815~81)が、14代将軍徳川家茂(1846~66)に献上した品。オイレンブルグは万延元年(1860)5月に品川に到着し、日本との条約締結交渉に入った。長い交渉の後、同年12月14日に修好通商条約が締結された。
「大徳川展」より抜粋掲載。
作者:一真
更新日:2008年12月17日 8時36分
中小零細住宅生産企業にとって、”長期優良住宅”申請は困難に!
「長期優良住宅普及促進法」が11月28日、参議院本会議で可決、成立した。12月5日に公布され、半年以内に施行される。長期間の使用に耐えられる住宅の建築・維持管理計画を自治体が認定し、認定住宅は固定資産税などの優遇措置が受けられる。住宅ローン減税の上乗せなども検討されており、施主のメリットも大きい。


長期優良住宅法は早ければ4月中に施行
長期優良住宅法では一定の性能[表]を満たす質の高い住宅の建築計画、建築後最低30年の維持保全計画の2つ(「長期優良住宅建築等計画」)を自治体が認定する。
法律的には、新築だけでなく既存住宅の増築、改築も対象となるが、当初は新築に関してのみ認定基準を定め、今後技術的な知見を整った段階で順次既存住宅の増改築についても認定基準を定めていく予定だ。
認定を受けるには
認定のポイントは、大きく分けて2つ。①建築する住宅が定めた基本性能を満たしているか。②維持管理計画が妥当かどうか。この2つがともに基準に適合していれば認定を受けることができる。①の基本性能については、指定性能評価機関などが行っている住宅性能表示制度などを使って第三者による証明を受けることが求められる。ただし、長期優良住宅専用の適合証明などを設けることも検討されている。②の維持保全の計画についても、基準が省令で定められる。国の審議会への会合では、住宅金融支援機構の維持保全に関する資料などが参考資料として配付されており、こうした既存の知見をベースに省令基準が定められる方向だ。景観への配慮など地域性を考慮する項目もあるため、最終的には自社エリアの自治体の認定基準をきちんと確認しておきたい。
手続きの合理化
長期優良住宅の認定の申請は建築確認の申請と同時期に行うことが想定されている。申請は別々に行ってもよいが、一緒に申請書を提出することもできる。その場合、認定の通知をもって、確認済み証公布することができる。
クレームに注意
法律的には申請の主体は建築主となっている。ただ実際には工務店などが主導・代行して行うことになる。長期優良住宅向けに優遇税制や金利優遇制度などの創設が検討されているが、認定を受けなければこうした優遇は受けられない。認定は長期優良住宅法の施行日以降でないと受けられないので、認定住宅と同等レベル(同予算)の住宅を建設する場合は、着工時期を施行日にあわせて後らせることを検討したい。施主からも求められるケースも出てきそうだ。逆に、認定基準と同等レベルの住宅を建てていにも関わらず、施主に認定のことを知らせずに工事を進めた場合は、ローン減税額に違いが出てくるので、「なぜ教えてくれなかったのか」と施主からクレームが来る可能性もある。施主からとくに要望がなくても制度の悦明をすべきであろう。
記録の作成と保存
長期優良認定住宅は、認定を受けた維持保全計画に沿って点検や修繕などを行う必要が在る。同時に、その記録を作成し、保存しなければならない。これも住宅会社が直接提供するか、提携する外部機関などを紹介するなど、住宅会社が主導的に行うことが主流となる。
作成方法や保存方法については省令で定められるが、「超長期住宅先導的モデル事業」の採択案件などを参考に、自社の対応方針を決めておくことが望ましい・
新建ハウジング(2008,12.10)より抜粋掲載。
長寿命住宅構想は、これまでも様々な構想が国交省とハウスメーカー及び天下り受入職能団体で推進してきたが、途中で立ち消えとなっている。その原因は、それは、かって、プレハブ協会設立時、国交省の住宅局長が、本来の業務をそっちのけに、プレハブ協会創立のための全国行脚したことが如実に示しているように、プレハブ住宅産業という特定の企業の利益のために、便宜供与を図り、天下り先を確保するという官・業癒着による住宅生産行政であるからである。天下りで凝縮されている住宅金融支援機構がローンを担保に、独自の仕様書を作成し、金物屋に莫大な利益を上げさせ、他方、金物使用で、木造住宅の寿命を縮めているという矛盾をつくり出してきている。今回の長期優良住宅構想も、住み手の立場でなく、ハウスメーカーなど、大手住宅生産企業の利益のみを考慮したものであることは、見え見えである。
今日、一番大事なことは、長寿命住宅の歴史と実績をつくり出してきた伝統木造構法、木造在来構法を受け継ぐ後継者づくりである。そのためには、伝統建築物の保存事業を独占させている職能団体の解体により、保存事業の公開による仕事の提供と、仕事を通じての技の習得である。「木」を知らず、プレカットと金物だけによる長期優良住宅は、本当に長寿命住宅であるか、きわめて疑問であるといえる。(一真)
作者:一真
更新日:2008年12月16日 9時5分
大法寺と荒川
最勝寺から数分の所に
日蓮宗の大法寺が在ると聞き
立ち寄る。
東京大空襲で、
壊滅状態になった江戸川区に
焼失しないお寺が存在しているのかと
疑心暗鬼であったが、健存していた。

大法寺正面





荒川 荒川での釣り船と桟敷のグランドで野球を楽しむ人々

戦前から住んでいる地元の話だと、
ほとんどの神社仏閣が、東京大空襲で焼失し、
焼失した神社仏閣のほとんどがコンクリート造りに
なってしまったとのことである。
戦争は、すべての文化財を破壊する。
今日も続いている。
歴史的な文化財の保存の大事さを考えれば、
いかに戦争は、愚かな行為であるか、
分かるのでは?
作者:一真
更新日:2008年12月15日 8時13分
梅の花が咲く境内の最勝寺(目黄不動)!
陽気も良いので
JR総武線「平井駅」で下車し、
昔からの下町の雰囲気をかもし出している
商店街をぶらぶらと歩きながら
東京江戸川区平井にある
”最勝寺”に足を運ぶ。

牛宝山明王院



不動尊


陽気がよのか、梅の花がさいていた。
最勝寺(目黄不動―めきふどう)
天台宗で牛宝山明王院(こうほうざんみょうおういん)と号し、大正2年(1913)に、本所表町(現・墨田区)から現在地に移転された。開山は、貞観2年(860)で、慈覚天人の建立である。
墓地には、鳥亭焉馬(劇作者)、富田木歩(俳人)、柔道界の鬼と言われた徳三宝などの墓がある。昭和56年(1981)、江戸川区登録有形文化財となる。
作者:一真
更新日:2008年12月14日 9時4分
日本独自の伝統美を表現する民家の屋根!

祖谷山民家の屋根
源平合戦で知られる屋島の山麓につくられた「四国村」は、四国各地の古い建物を集めた民家集落である。入口近くにある“わら屋”(ざいごうどん)は、平家の落人村として有名な徳島の西祖谷山村にあった山田家(農)を移築・復元したもので、寄棟大壁造り、屋根は茅葺きである。南面に出っぱった軒は湯殿と呼ばれ、祖谷山民家の特徴をみせている。
(香川・高松市・島中町・四国村)

砂糖しめ小屋の屋根
讃岐三白(砂糖・塩・綿)の雄としてむかし栄えた“砂糖づくり”は東讃岐白鳥町の医者向山周慶によってはじめられたという。これは香川県坂出に一棟だけ残っていた珍しい「砂糖しめ小屋」を四国村に移築したものである。異国の建物を思わせる円錐形の屋根は皮葺きである。内部中央にある“車石”と呼ばれる石臼の腕木を、牛がひいてまわし、石の間に砂糖きびを差し込んで汁をしぼったという。
(香川・高松市・島中町・四国村)

山村紙ススキ民家の茅葺き屋根
愛媛県の南、小田町の東端にあたる深い谷筋の最も奥まった山の斜面にあった河野家(紙スキ農)を移築したもの。主屋は18世紀前半頃の建物で、入母屋造り、草葺きの屋根を下屋まで葺きおろしにしている。主屋の右は「駄屋」(納屋)である。2間どり、部屋の床はすべて竹のすのこを敷き、どの部屋にも「いろり」がきられて、冬寒い山間の住いをみせている。土間には和紙の原料にするコウゾを蒸す炉もある「紙すすき農家」で、南予地方を代表する典型的な山村民家である。
(旧、愛媛・上浮穴郡・小田町 現、香川・高松市・島中町・四国村)

「――日本独自の伝統美を保ち、庶民の文化遺産ともいえる古民家の姿、ことに”屋根”のかたちには考えさせられるものが多い。貴重な先人の生活の知恵や、優れた造形感覚を再確認し、明日に生かし、次代にも正しく伝えたいものである。」(まえがき)
「屋根・棟飾」著者:増田 正(発行:株式会社グラフイック社)より転載。
作者:一真
更新日:2008年12月13日 8時20分
太陽光発電補助ー来年早々から!

新たに始まる太陽光発電システムの設置に対する補助事業は、1kWあたり70万円以下の太陽光発電システムが対象で、設置システム1kWあたり7万円補助するもの。今年度の補正予算で90億円が認められた。1戸あたり3kWとして3万5000戸を想定している。申請窓口は、都道府県ごとに、公募により採択されたNPO法人など非営利団体が担当する(公募は終了)。
窓口では同補助事業のほかに、自治体が独自の予算で実施している補助事業の情報も提供する。ただし、自治体独自の補助事業の申請は受け付けない。具体的な申請の手順は12月5日現在未定だが、申請の際に工事着工日を記入し、新築ならば6ヶ月以内、既設住宅ならば3ヶ月以内に設置することとなる。既設の設備は補助金の対象とならないので、着工日が来年早々を予定している物件があれば、時期を検討したい。
新建ハウジング(2008.12.10)「行政ニュース」より掲載。
作者:一真
更新日:2008年12月12日 8時8分
わが国最古のゼンマイ洋時計!
年末に入り、何かと忙しい時期ですね。
今回は、スペイン国王から、徳川家康に贈られたという洋時計です。

洋時計(1581年マドリッド製刻銘)
ハンス・デ・エバロ作
静岡県・久能山東照宮博物館所蔵
晩年の家康の手許には、日時計・方時計・唐の時計・砂時計など、多くの時計が蒐められていた。中でもこの洋時計は、金地院崇伝の『異国日記』の信物到来に関する諸取目録に「斗景 壱個」とみえており、慶長16年(1611)にスペイン国王から、属領フィリピンの総督ドン・ロドリゴ一行の海難救助の謝礼として家康に贈られたという由緒がある。本体は金銅製の箱形でドーム状の屋根をつけ、左右の側面を扉造りとする。扉と背面にはアーチ門より遠望する城砦風景を線彫りし、ドーム状の上部の表面には青海波透し彫りの金具を重ねている。正面の円形文字盤は白銅に異色の塗料を嵌めたもので。白銅製の針は
後補。文字盤下の銘礼及び底部裏面の刻銘から、1581年にスペインのマドリッドでハンス・デ・エバロが制作したものであることがわかり、ゼンマイ仕掛けの時打付き時計としてわが国に伝存する最古のものである。
「大徳川展」より抜粋掲載。
作者:一真
更新日:2008年12月11日 8時40分
”酒は涙か溜息か”ー古賀政男の人生とメロディ
中学生時代、ギターに夢中になり
連日、同級生と練習に励んだことを想い出す。
ギターの曲といえば、
当時は、古賀メロディーであった。
「影を慕いて」「湯の町エレージ」などの曲が
へたくそなりに弾けるようになったときの喜びは
最高であった。
政治・経済の評論で辛口の佐高 信氏が
「酒は涙か溜息か」(角川文庫)を出版した。
古賀政男の生き様を通じて戦前・戦中・戦後の
時代の変化と歌謡曲の変遷が語られている。

日本歌謡曲の源流
ある雑誌で「委細面談」ならぬ「異性面面談」という連載を私がやっていて、相手に都はるみを頼んだことがある。パートナーの敏腕ディレクター、中村一好が一緒だった。その中村が1989年(平成元年)春、キム・ヨンジャの歌を聴いて衝動を受ける。中村は日本コロンビア(現コロンビアミュージックエンタイメント)の社員として都はるみの「大阪しぐれ」や「浪花恋しぐれ」の政策に携わったが、歌手を引退して制作活動を開始した都はるみを手伝うため、コロンビアを退社していた。そして彼女と二人でヨンジャのステージに足を運ぶ。内々にヨンジャの新曲づくりを頼まれていたからである。読売新聞社文化部の『この歌この歌手』(現代教養文庫)に、記者の奥山弘が、ヨンジャの「暗夜航路」が生まれるまでを記している。それによれば、ヨンジャは都はるみの大ファンだった。だから、終わった後のすし屋での懇談は、ヨンジャにとって至福の3時間だったのである。
そばでそれをきいていた中村はヨンジャに好印象を持つ。
「われわれの忘れていた歌謡曲を支えてきた、歌へのひたむきさというか、無垢な心のようなものを感じましてね。外国人歌手の場合に問題になる日本語も達者なんで、不安は感じなかった」。中村は、「大阪しぐれ」などの作詞で気心の知れていた吉岡治に、ヨンジャの歌の作詞を依頼する。「ヨンジャの歌にかけるひたむきさは、日本人の歌い手が忘れていた原点のように感じている。では、作り手のわれわれにとっての歌謡曲の原点は何か?」
そう考えて中村が思い浮かべたのは古賀政男だった。古賀こそが日本の歌謡曲の源流をつくった人だからである。
吉岡と相談して中村は、古賀の「マイナーのワルツで行こう」と決める。イメージしたのは「影を慕いて」や「悲しい酒」だった。「古賀メロディーは、古賀さん韓国生活で得たものをもとに生まれている。これにヨンジャの歌心を加えれば、どこかで日韓の架け橋になるような気がしたんです」
吉岡が中村に届けた数編の詩の一つに「港ひとり唄」があった。これが後に改題されて「暗夜航路」となる。あるいは古賀が生きていたら中村は曲を古賀に頼んだかもしれないが、亡くなって10年にも成っていたので、「天城越え」などで吉岡とコンビを組んだ弦哲也に依頼される。中村のねらいは“平成の古賀メロディー”づくりだった。(佐高 信)
作者:一真
更新日:2008年12月10日 8時54分
冬を迎える「緑の国」
千葉県行徳地区に
宮内庁のお狩り場があり
野鳥公園があり、
”緑の国”というさまざまな
木で囲まれた公園がある。





新緑だった公園が
冬の季節を迎え
静かな雰囲気をかもし出していた。
だが
野鳥公園では、渡り鳥が
えさ場に押しかけ
にぎやかであった。。。。。
作者:一真
更新日:2008年12月9日 8時31分
耐震補強工事が進められている泉龍寺本堂!
NPO法人木造建築文化総合センター主催の
泉龍寺本堂耐震補強工事特別見学会に参加。
泉龍寺本堂は、宝永6年(1706)に再建された天台宗のお寺である。
昭和35年(1960)に大改修が行われ、茅葺屋根から瓦葺屋根と
なる。
今回の工事は、昭和35年以来の工事で、屋根は、銅板葺きになる
とのことである。

本堂屋根


腐朽梁松丸太取替 補強小屋組筋違工事


補強コンクリート布木基礎

腐朽梁松丸太 約300年の歳月の中で、腐朽し、ボロボロになった松丸太
耐震補強壁工事等はこれからとのこと。
直接、工事現場が見学ができ
施行している専門家からの解説を聞ける
見学会は魅力的である。
今後も続けるとのことである。
作者:一真
更新日:2008年12月8日 8時23分
狛江弁財天池緑地の紅葉!
東京都狛江市の
泉龍寺本堂耐震補強工事現場見学会に
参加。
その際、狛江弁財天池池緑地地区に
立ち寄り、紅葉を楽しむ。




晴天に恵まれ
思っていたほど寒くもなく
ゆったりした気持ちで
弁財天にご挨拶。。。。
作者:一真
更新日:2008年12月7日 9時59分
美の城ー姫路城の木組みの謎!

城を支え続ける西大柱。さりげなくも圧倒的な存在感を見せる=姫路城(撮影・岡本好太郎)
荷重に耐える継ぎ手模索
「心柱(しんばしら)」。姫路城大天守を支える二本の大柱をこう呼ぶ。見るからに力強い柱の木肌は鈍い光を放ち、薄暗い城内に荘厳さを際立たせている。
長さ約二十五メートル、太さ最大約一メートル。地階から六階床までを貫く構造は、現存する城郭では例を見ない。その名の通り、この城の根幹を成している。
西大柱は大天守を全面解体した「昭和の大修理」(一九五六―六四年)で、二本継ぎの柱の芯に腐れが見つかり、取り換えられることになった。新しい柱は、東大柱と同様に一本材の柱にして強度を保とうとした。大木を探す旅が始まった。
約一年後、木曽山中で樹齢七百六十五年のヒノキが見つかった。しかし、原木を運び出す途中に折損事故が発生。修理では元通り、三階床上で二本継ぎの柱になった。上方に継がれた別のヒノキは、市川町・笠形神社から伐採されたものだった。
二本継ぎには、合理的な理由があった。
柱は、短いほど組み立てやすい。長い柱を使えば、組む梁(はり)の数が増え、柱を傾けて継ぎ手を緩めなければ梁が入らない。構造は弱くなるが、作業の危険を避け、ほかの部材による補強で堅固さを維持しようとした。
柱を継ぎ、梁同士を交差させる木組み。部材の材質や強度、かかる力を考え、荷重に耐える組み方が編み出された。
木組みの種類は大天守全体で基本型が四十種、改良を施したものを含めると約百種に及ぶ。断面はパズルのように複雑で、匠(たくみ)たちの腕の見せどころだった。
西大柱も例外ではなかった。宮大工の和田善夫(72)は、棟梁(とうりょう)だったいとこの和田通夫(故人)に継ぎ手作りを任せられる。大修理が中盤に差し掛かったころだった。
「心柱の継ぎ目は城にとって致命的で重要な部分。まあ、命までは取られまいと、腹をくくってやった」
当時二十代。大工になって十年そこそこだった。大役だが、気負いはなかった。同僚と持てる技のすべてをぶつけた。
継ぎ手の長さは約二・四メートル。一メートルもある鑿(のみ)を駆使して彫っていく。完成まで、継ぎ手だけで約一週間、柱全体では約四十日を費やした。

「追っ掛け継ぎ」という。継ぎ手の切り口は平面に重ねるのではなく、凹凸の段差をつけた=図。荷重が横方向に逃げないように内側へ切り込みを入れ、「蟻(あり)」と呼ばれるかぎ状の引っ掛けを四カ所に設けた。 合わせ目の削り具合は数ミリ単位で調節する。木の収縮で抜ける心配がなく、また大きすぎて割れないようにするため、その兼ね合いを現場で話し合った。経験だけが頼りだった。
組み立ては柱の上部をウインチでつり上げ、蟻を埋めた後、柱の重みで落としていく。和田は、自らの仕事が試される瞬間に立ち会った。
「大きな建物だと、部材のわずかな誤差でも集まれば転ぶ。あの時代、これほどの巨大な城をよくも造り上げたよ」
大ざっぱではあるが、くぎを使わなくても肝心な所は揺るぎない。和田はうなった。四世紀にわたり、この城に息吹を注ぎ込んできたのは、あまたの職人の技と心意気だった。
=文中敬称略 (井関 徹)
神戸新聞(2008.9.28)より抜粋掲載。
作者:一真
更新日:2008年12月6日 8時17分