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トップ > 源氏物語 > 源氏物語 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2009年1月9日 8時)

社会を壊す時代の終焉とともにヤンキーと左翼は死んだ

テレビとはヤンキーの心を掴むことという記事を読んだ。

自分はどっちかというと反社会的な考え方を持ってると思う。子供の頃から社会から与えられるものにはそっぽを向いてきたし、親や教師の言うことなんてさらさら聞きはしなかった。そういう意味では自分にも「ヤンキー」的な部分は多少あるんじゃないかと思う。

しかし時代が変わってしまった。大人になってみたらあれほど「俺がぶち壊してやるぜ」と思っていた社会の壁はとっくに崩壊していた。ふり上げた拳は行き場を無くし、同時に生きる意味も見失っていた。

そう、自分には敵が必要だったのだ。その敵と戦う自分がアイデンティティだった。しかしその敵は俺が戦う力を練り上げてる間に自分で勝手に崩れ落ちており、もはや「反社会」はギャグにしかならなかった。

引き合いに出して申し訳ないが、バレンタイン粉砕デモで恋愛資本主義を打倒せよといった活動には大爆笑させてもらった。ギャグでやってるんだと思ってたからだ。ギャグとしては一級品だったと思う。

かつて社会は壊すべき存在だった。破壊と再生が求められていた。いや今も、破壊すべき部分は多少残ってはいるのだが。

でももうほとんど壊れた。瓦礫の中で「粉砕!」と叫んだところでもはやギャグ以上のものは生まれない。今はもう、この瓦礫の上に新しい社会を作りだす「再生」の時なのだと思う。

権威の否定がいきづらさにつながるという記事はまさにそれを象徴したような記事で、社会がもはや「生き方」のモデルを提供してくれなかった事を示している。範にすべき先人はもはや古くさくて今の時代にそぐわないし、かといってほとんどの人が自分自身ですべてを考え決定する能力が身につくほど、今の教育制度は立派なもんじゃない。

しかしその時代について行けない人がいる。それが冒頭で紹介した記事に描かれる「ヤンキー」なんだろう。

社会に迎合せず、自分の律で行動し、法律や政治や知恵や科学を無視し、人情を大事にする。そういう人物像に、ヒーロー的な憧憬を今も日本人は持ち続けてるのだろう。

先日このような記事がコピペされて話題になっていた。これも結局そういうことなのかな、と思う。社会的には悪い子でも、直接対峙してみればいい子。そういうモデルが人をひきつけている。

何年か前から、ネットの言論が右傾化しているという発言をちらほら見掛けることがあった。その言論の最中にいた自分としては、そうかなあという気分だった。友達とその点を議論したら「右傾化してるんじゃなくて普通なんだと思います」という答えが帰ってきた。

変わったのは若者でもネット言論でも左翼でもなく、時代。こないだの派遣村についていろいろネットで意見が巻きおこってたようだけど、それも左翼の正義が時代の変化で正義じゃなくなってるからなんだろうな……。

昔は会社なり思想なり規範とすべきものを提供してくれるものがあって、それにならってればよかったけども、今は違う。ここは同意できるけどここは同意できないというのがどこに対してもあるのがあたりまえの時代。

周囲の意見を聞いても、派遣村という取り組みには賛同するがそこに憲法問題を持ちこんだり政府批判を持ちこんだりするのには反発を覚えるという感じだった。「派遣切りの被害者」という弱みにつけこんだ政治活動だとすら思ってる人がいるのだろう。

全面同意を期待してあれもこれもと持ちこめば反発を招くわけだな。もうそんなやり方は通用しないのに。

作者:KoshianX

更新日:2009年1月9日 22時5分

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あけましておめでとうございます

例年通り何の実感も無い年明けも過ぎ、三が日が終了しようとしている今日この頃。とりあえずあけおめことよろの一つも書いておくか。

ちょっと仕事ととあるプロジェクトの準備を進めたくて、年末に栃木に一度戻って来たのだが、アテにしてた人らが来てくれなかったもんで、手が付けられなかったのが残念。人頼みはやっぱよくないね。

しばらく日記を書いてないとむらむらしてしまう体質なので、少しネタも書かせてもらおうかな。

ということで初詣の成果は佐世保バーガーにタイラーメンにドネルケバブ……ってここどこだよ!

さすが栃木、節操無いぜ……

作者:KoshianX

更新日:2009年1月3日 17時16分

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努力が苦手だから方法を考える

前の記事を書いた後ふと思いだしたのだが、俺がなんで「努力」という言葉が嫌いなのかというと、それは中身を伴わずにかけられる言葉である事が多いからなのであった。

こんなトラックバックを頂いたのだが、この表題がその「中身が無い」ことを端的に表してるよな。

自分でそういうのが嫌いなくせに同じようなことをしてしまってたようだ。申し訳ない。前の記事で書いた「才能」も中身が無い事が多い言葉だが、「努力」もホント中身を言わずに書いちゃうこと多いね。

でも具体的な「努力」の中身ってあんまり一般化しにくいのも事実。結局大目標を定めて中目標小目標と定めながらそこに至るための方法を調べたり考えたりするという基本に立ち返るしかなくなる。

俺はほんっとに努力とか頑張るとかそういうのが苦手な人間なので、やらなきゃいけないことは日常にどうやって組み込むかいつも悩む。毎日同じことをきちんとやる、というのはほとんど達成できたためしがない。うっかりすると歯磨きやお風呂すら忘れてたりする。

楽しいことや、外部からの強制力が働くことはけっこうやれるので、そのようにうまく自分の環境を作るしかないかなあと思ってる。

たまに小さい子供と一緒に生活してたりするのだが、そういうときはたいてい俺がお風呂に入れる役目。なので子供と生活してるときはお風呂を忘れなくて済む。歯磨きとか洗眼も毎朝教えながら一緒にやってあげないといけないので、(朝起きれれば)自分も忘れないで済んだりする。子供ってやっぱいいなあ。

仕事もお金が出ない作業はなかなか進まない。お金が出るとそれに応じた責任(外部からの強制力)も発生するので、けっこう進んだりする。ちゃんとお金を頂くのって大事だなあとちょっと痛感した部分もある。

以前、原因不明の全身倦怠感がひどくて5ヶ月くらいほとんどベッドの上で過ごすはめになった事があるのだが、そのときはひたすら体を休めることを考えていた。最初の3ヶ月は退屈すら感じなかったので、とりあえずIPが繋がってないと落ち着かない性質のためにノートパソコンを枕元に置いてIRCだけ繋いでた。その後の2ヶ月は少し退屈を感じるようになってきたので、このまま極力休んでれば大丈夫と信じ、できるだけ心身に疲労を残さない遊びを探すようにした。ねっころがりながらの桃鉄が一番よかったな。こうしてひたすらリラックス状態を維持する事につとめ、どうにか医者も投げ出した全身倦怠感を運良く切り抜けることができた。

その後は失った体力を戻すために何かしなくてはならなかったのだが、真面目なトレーニングなど自分に続けられるわけがないので思案し、自転車を購入した。元々タイヤの付いてるものはなんでも好きで、自転車に乗るのは今でも楽しいから、少しは続くかと思ったのだ。最初は500m程度走っただけで足ががくがくだったが、だんだん距離を伸ばして5kmくらいガンガンにこいで走れるようになった。

今はそうそう自転車に乗ってるヒマもないので、家族のリクエストもあってとりあえずWiiとWii Fit、Wii Sportsをそろえてみた。夜でも気軽に運動できるのがよい。

まあ、これだけやってもちゃんと運動できなかったりしてるので、どんだけ努力とか継続とか苦手なんだよと自分でも思うのだが……。

あとは生活に運動を組み込むしかないので、近距離の買い出しなどは自転車で行くことを考えている。課題は荷物と時間。

自転車向きのそこそこ大きなバッグは買ってみたが、やはり入りきらない事があるのでもう一回り大きいバッグが必要かもしれない。時間の都合で少し離れた場所まで行く時は車に頼らざるを得ないので、ロードレーサーみたいなもっとスピードの出る自転車に乗り換える事も考えている。

どのみち今の道路事情的には日常的に走るには危険すぎるので、建設中の新しい道路ができてからになるのだけどね。広くて走りやすそうだし、かなりのショートカットになるので、7〜8kmくらい先のよくいくお店に自転車で行くことも現実的になる。*1

こうやって少しずつ、前提をクリアして、目標を達成する。苦手なことをどうやってうまくやるか考える。頭から「努力しろ」なんて言われたって意味わかんないもんな。こうやって中身考えるのも努力の最初の1歩なんだろう。

ホントに努力する才能に恵まれた人なら、こんな回りくどいことしなくても毎日ランニングとか続けられて、とっくに人並み以上の体力を身につけてるんだろうが……。俺にそんな才能は無いので、手を変え品を変え自分を飽きさせない方法を考えるしかない。

iPod touchを買ってからはメモアプリに入力するのが何か楽しくて、買い物メモなんかはよく取るようになった。いまはiPhoneでそれをやってるけど、買い忘れが無くなってとてもいい。こういう使ってて楽しいガジェットを利用するのも手だよね。

iPhone使った何かエクササイズ系のアプリとかもあるのかなあ。

*1:とはいえちょっとしばらく今の街から離れることになりそうなので、この目標は達成できそうにないのだけどね

作者:KoshianX

更新日:2008年12月28日 22時40分

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なんでも才能のせいにするなよ

ここ最近、少し気になる記事があった。

どうもこういう記事を読んでると、「何を言ってるんだ」という気分になる。

清掃やらレジ打ちの人の中にも、努力とかじゃ到底到達出来ない技術を持った人がいるって認められないことこそ、僕は職業蔑視だと思うんだ。

つかお前が100年くらいレジ打ちの修行をした後で、あのレジのおばさんとレジ打ち勝負したとしても、100回中10000回負けるし、お前のレジ打ちなんかは、あのおばさんのレジ打ちの前ではへたくそなドジョウ掬いみたいなものです。

才能あるレジのおばさんにはそれ相応の給料を払ったほうが良い - コトリコ

なぜ勝てないと思うんだ? 10年もみっちり修行したら到達できる領域だとは思わないのか? なんで戦う前から負けを決めつけるんだ?*1

別に絵が描けなくたって、文章が書けなくたって、それが誰にも認められなくたって、死ぬ訳じゃあないけど、それを自分の心のよすがにしてきた人間には、自分にはその分野で活躍していくような技能も才覚(つまりは才能)がない、と気がつくことはとてつもないショックを伴う。

才能がない、ということに気がつくということ。

技能なら身につければいいじゃないか。才覚って具体的にはなんだよ。

才能という言葉に対して、目から鱗が落ちるような思いを最近した。

宮崎 お金集めは鈴木(敏夫)プロデューサーがやってくれるので何の心配もいりません。つまり、自分の才能の不足に苦しむのだと思います。

1日4時間しか寝なくてもスッキリしている頭とか、机の上の細かい絵がよく見える目とか、何時間指を動かしていても鉛筆を握っていても疲れない腕とかそういうものがないのです。

Business Media 誠:“ポニョ”を作りながら考えていたこと:「世界は美しいものなんだな」と感じてくれる映画を作りたい——宮崎駿監督、映画哲学を語る(後編) (2/4)

この宮崎駿の言葉はもの凄く俺の中に響いた。そうだよ、それだよ!という感じ。こんな具体的な「才能」という言葉の中身は初めて見た。

俺にも1日4時間しか寝なくてもフル回転する頭や、何時間椅子にすわってても痛くならない腰があれば、もっともっと生産性を高める事ができるだろうし、身につける技術のレベルも高くなるだろう。でも実際にはそんな「才能」は持ち合わせてない。ハタチ前後の時期なら「若さ」がその「才能」のように機能してくれたのかもしれないけれども。

あまりに距離が遠いと、大きさの感覚を失うというのはまあ理解できる。俺も昔コンピュータの素人さんに「あんたなら何ができても不思議じゃない」とか言われたことがあるが、いくらなんでもそんな万能選手じゃない。彼らには俺の書くスクリプトが魔法のように見えたのかもしれないが、実際には根性と気合いでとにかく急いで書き上げた泥くさいスクリプトだ。それなりに頑張ったのに「不思議じゃない」、つまり「できてあたりまえ」みたいに思われるのは非常に悔しい。

「あんなの俺には無理だ」なんて思うことはいくらでもある。でもやってみれば、思ったより簡単にできたりする事もホントによくある。気が遠くなるほど遠くて大きいものように思えても、近づいてみれば意外に近くて小さいものだったりするのだ。

魔法に見えるのはそこに近付いてない証拠でしかない。

才能なんて言葉はごまかしじゃないのか。天才少年もそれがおもしろくてハマってるうちに他人の数倍の練習量をこなしてただけじゃないのか。単なる体力不足や根性不足で体や脳味噌を動かす時間で負けてるだけじゃないのか。

俺は努力とか根性とかいう言葉が好きなわけじゃない。どっちかというと嫌いな方なんだが、それが必要になる局面があることは否定しない。最後の最後は根性入れて努力するしかない、ということはけっこうある。しないで済めばそのほうがいいんだけどさ、コスト的な意味でも。

反面、才能というものがあるのも否定しない。努力しなくても最初から身につけてるものは確かにある。でもそれを努力で身に付けられないという証左は無い。それに才能は枯れる事もあるが、努力して身につけたものは枯れることは無い。そもそも才能に頼ってる時点でプロとしては問題があるだろう。才能でやってることなんてのは、なんでそれができるのか説明できないしな。

そりゃ簡単に身につくわけじゃない。才能ある人だって結果を出すにはそれ相応の努力もしてる。才能が無いならその分も努力しなきゃいけないんだから、大変なのは当然だ。

ひところ、頑張らない生き方、なんてのが流行ったことがある。それはそれでいいと思う。でも頑張らないことを選択したなら、それ相応の結果は覚悟してしかるべきだ。

間違った頑張り方をしてる人もいたりするけどね。病気なのに休まず動こうとするとか、お前はがんばってどうやって休むか考えろとか言いたくなる。

とにかく正しいトレーニングを積めば、トレーニング手法を模索しながら進んで来た先人たちより早く同じ場所に到達できるはず。才能に頼りきりの奴なんて、すぐに追い抜ける。

俺は自分の才能は信じても、他人の才能は絶対に信じない。そんなとこに壁を作った時点で負けが確定しちまってる。

勝てない理由並べてるヒマや人を中二病呼ばわりしてるヒマがあるなら、どうやって追いつくか必死に考えて実践してたほうがずっと楽しいしな。

追記

10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に? | 独り言v6

トラックバックが届かなかったのだけども、この記事がとてもよかった。

最後に一言でまとめると、自分に言い訳する必要無しに10000時間続けられるものを探しなさい、ということだ。

10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に? | 独り言v6

この言葉は至言と言ってもいいと思う。

*1:いや元記事の主旨には同意するんだけどね。凄腕のレジ打ちはもっと儲かっていいはずだ

作者:KoshianX

更新日:2008年12月28日 5時0分

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ネタ探しは生活にうるおいが出るよね

先週末、第2回コーヒーオフに行って来た。前回同様おいしいコーヒーと甘味と共に雑談を楽しませていただいた。

初めましての方とも交流できたし、id:takerunbaさんとも会えたし、とても楽しかった。id:sakadonが「デジタルネイティブっぽい!」とか言われてたのには笑ったけどな。

そのコーヒーオフに参加してらしたid:ropparaさんの言葉がちょっと印象的で、「ブロガーの性でついネタを求めてしまう」というようなことをおっしゃっていた。

俺はあんまり「ブロガー」という自覚は無いのだけれども、10年くらいちまちまウェブに文章を書いて来たし、他のサイトさんからリンクを頂くとやはり嬉しいというのもあって、やっぱりネタを求めてしまう面というのはすごく理解できる。自分の書いたものをおもしろいと思って頂けるのは、文章でもプログラムでもやっぱり嬉しいし、楽しいしね。

そういう意味では5年程前から盛りあがって来た「ブログ」という潮流にひっかかったのは幸運だったとも思うし、おかげでこうして「ブロガー」の皆さんと交流も持てた。俺のサイトをウェブ日記と呼ぶかブログと呼ぶか単にウェブサイトと呼ぶかは好きずきでかまわんと思うが、まあ今の言葉でいえば「ブログ」であり「ブロガー」ということになるんだろうな。

日常の生活の中で「お、これは日記のネタにしよう」と思う場面というのはけっこうあるものだ。「夢でこれは日記のネタにしようと思ったところで目が醒めたんだが何をネタにしようとしたのか思い出せない」なんて言ってたのはid:inuだっけっか。

もう10年も書いてるものだからすっかり日常化してて忘れてたが、そういう「ネタ視点で日常を見る」というのは、日々の生活が楽しくなるのである。友達が言った何気無い一言や、街で見掛けたもの、世の中にはなんとネタが溢れてることか。

特に子供はネタの宝庫である。BBQでヤバい事言ってた女の子アホなこと言ってた某女子高生などなど、昔はよくネタにさしてもらったっけなあ。今もいろいろ楽しませてもらってるので、そのうちまたネタにするか。

世界はネタで溢れてる。ちょっとそういう視点で見てみるだけで、実に世界というのは愉快なものだということに気付く。

今はPhotoShareなんかもやってて、写真を撮る楽しみが増えた。おもしろいネタを見付けるとついつい写真をとってPhotoShareにあげてしまう。最近はあとで上げようと思ってて忘れてることが多いけどね。はてなダイアリーに張れるといいのにな。

ネタで溢れたこの世界とその住人に、メリークリスマス!

作者:KoshianX

更新日:2008年12月25日 22時29分

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社会を壊す時代の終焉とともにヤンキーと左翼は死んだ

テレビとはヤンキーの心を掴むことという記事を読んだ。

自分はどっちかというと反社会的な考え方を持ってると思う。子供の頃から社会から与えられるものにはそっぽを向いてきたし、親や教師の言うことなんてさらさら聞きはしなかった。そういう意味では自分にも「ヤンキー」的な部分は多少あるんじゃないかと思う。

しかし時代が変わってしまった。大人になってみたらあれほど「俺がぶち壊してやるぜ」と思っていた社会の壁はとっくに崩壊していた。ふり上げた拳は行き場を無くし、同時に生きる意味も見失っていた。

そう、自分には敵が必要だったのだ。その敵と戦う自分がアイデンティティだった。しかしその敵は俺が戦う力を練り上げてる間に自分で勝手に崩れ落ちており、もはや「反社会」はギャグにしかならなかった。

引き合いに出して申し訳ないが、バレンタイン粉砕デモで恋愛資本主義を打倒せよといった活動には大爆笑させてもらった。ギャグでやってるんだと思ってたからだ。ギャグとしては一級品だったと思う。

かつて社会は壊すべき存在だった。破壊と再生が求められていた。いや今も、破壊すべき部分は多少残ってはいるのだが。

でももうほとんど壊れた。瓦礫の中で「粉砕!」と叫んだところでもはやギャグ以上のものは生まれない。今はもう、この瓦礫の上に新しい社会を作りだす「再生」の時なのだと思う。

権威の否定がいきづらさにつながるという記事はまさにそれを象徴したような記事で、社会がもはや「生き方」のモデルを提供してくれなかった事を示している。範にすべき先人はもはや古くさくて今の時代にそぐわないし、かといってほとんどの人が自分自身ですべてを考え決定する能力が身につくほど、今の教育制度は立派なもんじゃない。

しかしその時代について行けない人がいる。それが冒頭で紹介した記事に描かれる「ヤンキー」なんだろう。

社会に迎合せず、自分の律で行動し、法律や政治や知恵や科学を無視し、人情を大事にする。そういう人物像に、ヒーロー的な憧憬を今も日本人は持ち続けてるのだろう。

先日このような記事がコピペされて話題になっていた。これも結局そういうことなのかな、と思う。社会的には悪い子でも、直接対峙してみればいい子。そういうモデルが人をひきつけている。

何年か前から、ネットの言論が右傾化しているという発言をちらほら見掛けることがあった。その言論の最中にいた自分としては、そうかなあという気分だった。友達とその点を議論したら「右傾化してるんじゃなくて普通なんだと思います」という答えが帰ってきた。

変わったのは若者でもネット言論でも左翼でもなく、時代。こないだの派遣村についていろいろネットで意見が巻きおこってたようだけど、それも左翼の正義が時代の変化で正義じゃなくなってるからなんだろうな……。

昔は会社なり思想なり規範とすべきものを提供してくれるものがあって、それにならってればよかったけども、今は違う。ここは同意できるけどここは同意できないというのがどこに対してもあるのがあたりまえの時代。

周囲の意見を聞いても、派遣村という取り組みには賛同するがそこに憲法問題を持ちこんだり政府批判を持ちこんだりするのには反発を覚えるという感じだった。「派遣切りの被害者」という弱みにつけこんだ政治活動だとすら思ってる人がいるのだろう。

全面同意を期待してあれもこれもと持ちこめば反発を招くわけだな。もうそんなやり方は通用しないのに。

作者:KoshianX

更新日:2009年1月9日 13時5分

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あけましておめでとうございます

例年通り何の実感も無い年明けも過ぎ、三が日が終了しようとしている今日この頃。とりあえずあけおめことよろの一つも書いておくか。

ちょっと仕事ととあるプロジェクトの準備を進めたくて、年末に栃木に一度戻って来たのだが、アテにしてた人らが来てくれなかったもんで、手が付けられなかったのが残念。人頼みはやっぱよくないね。

しばらく日記を書いてないとむらむらしてしまう体質なので、少しネタも書かせてもらおうかな。

ということで初詣の成果は佐世保バーガーにタイラーメンにドネルケバブ……ってここどこだよ!

さすが栃木、節操無いぜ……

作者:KoshianX

更新日:2009年1月3日 8時16分

このブログのホーム

努力が苦手だから方法を考える

前の記事を書いた後ふと思いだしたのだが、俺がなんで「努力」という言葉が嫌いなのかというと、それは中身を伴わずにかけられる言葉である事が多いからなのであった。

こんなトラックバックを頂いたのだが、この表題がその「中身が無い」ことを端的に表してるよな。

自分でそういうのが嫌いなくせに同じようなことをしてしまってたようだ。申し訳ない。前の記事で書いた「才能」も中身が無い事が多い言葉だが、「努力」もホント中身を言わずに書いちゃうこと多いね。

でも具体的な「努力」の中身ってあんまり一般化しにくいのも事実。結局大目標を定めて中目標小目標と定めながらそこに至るための方法を調べたり考えたりするという基本に立ち返るしかなくなる。

俺はほんっとに努力とか頑張るとかそういうのが苦手な人間なので、やらなきゃいけないことは日常にどうやって組み込むかいつも悩む。毎日同じことをきちんとやる、というのはほとんど達成できたためしがない。うっかりすると歯磨きやお風呂すら忘れてたりする。

楽しいことや、外部からの強制力が働くことはけっこうやれるので、そのようにうまく自分の環境を作るしかないかなあと思ってる。

たまに小さい子供と一緒に生活してたりするのだが、そういうときはたいてい俺がお風呂に入れる役目。なので子供と生活してるときはお風呂を忘れなくて済む。歯磨きとか洗眼も毎朝教えながら一緒にやってあげないといけないので、(朝起きれれば)自分も忘れないで済んだりする。子供ってやっぱいいなあ。

仕事もお金が出ない作業はなかなか進まない。お金が出るとそれに応じた責任(外部からの強制力)も発生するので、けっこう進んだりする。ちゃんとお金を頂くのって大事だなあとちょっと痛感した部分もある。

以前、原因不明の全身倦怠感がひどくて5ヶ月くらいほとんどベッドの上で過ごすはめになった事があるのだが、そのときはひたすら体を休めることを考えていた。最初の3ヶ月は退屈すら感じなかったので、とりあえずIPが繋がってないと落ち着かない性質のためにノートパソコンを枕元に置いてIRCだけ繋いでた。その後の2ヶ月は少し退屈を感じるようになってきたので、このまま極力休んでれば大丈夫と信じ、できるだけ心身に疲労を残さない遊びを探すようにした。ねっころがりながらの桃鉄が一番よかったな。こうしてひたすらリラックス状態を維持する事につとめ、どうにか医者も投げ出した全身倦怠感を運良く切り抜けることができた。

その後は失った体力を戻すために何かしなくてはならなかったのだが、真面目なトレーニングなど自分に続けられるわけがないので思案し、自転車を購入した。元々タイヤの付いてるものはなんでも好きで、自転車に乗るのは今でも楽しいから、少しは続くかと思ったのだ。最初は500m程度走っただけで足ががくがくだったが、だんだん距離を伸ばして5kmくらいガンガンにこいで走れるようになった。

今はそうそう自転車に乗ってるヒマもないので、家族のリクエストもあってとりあえずWiiとWii Fit、Wii Sportsをそろえてみた。夜でも気軽に運動できるのがよい。

まあ、これだけやってもちゃんと運動できなかったりしてるので、どんだけ努力とか継続とか苦手なんだよと自分でも思うのだが……。

あとは生活に運動を組み込むしかないので、近距離の買い出しなどは自転車で行くことを考えている。課題は荷物と時間。

自転車向きのそこそこ大きなバッグは買ってみたが、やはり入りきらない事があるのでもう一回り大きいバッグが必要かもしれない。時間の都合で少し離れた場所まで行く時は車に頼らざるを得ないので、ロードレーサーみたいなもっとスピードの出る自転車に乗り換える事も考えている。

どのみち今の道路事情的には日常的に走るには危険すぎるので、建設中の新しい道路ができてからになるのだけどね。広くて走りやすそうだし、かなりのショートカットになるので、7〜8kmくらい先のよくいくお店に自転車で行くことも現実的になる。*1

こうやって少しずつ、前提をクリアして、目標を達成する。苦手なことをどうやってうまくやるか考える。頭から「努力しろ」なんて言われたって意味わかんないもんな。こうやって中身考えるのも努力の最初の1歩なんだろう。

ホントに努力する才能に恵まれた人なら、こんな回りくどいことしなくても毎日ランニングとか続けられて、とっくに人並み以上の体力を身につけてるんだろうが……。俺にそんな才能は無いので、手を変え品を変え自分を飽きさせない方法を考えるしかない。

iPod touchを買ってからはメモアプリに入力するのが何か楽しくて、買い物メモなんかはよく取るようになった。いまはiPhoneでそれをやってるけど、買い忘れが無くなってとてもいい。こういう使ってて楽しいガジェットを利用するのも手だよね。

iPhone使った何かエクササイズ系のアプリとかもあるのかなあ。

*1:とはいえちょっとしばらく今の街から離れることになりそうなので、この目標は達成できそうにないのだけどね

作者:KoshianX

更新日:2008年12月28日 13時40分

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なんでも才能のせいにするなよ

ここ最近、少し気になる記事があった。

どうもこういう記事を読んでると、「何を言ってるんだ」という気分になる。

清掃やらレジ打ちの人の中にも、努力とかじゃ到底到達出来ない技術を持った人がいるって認められないことこそ、僕は職業蔑視だと思うんだ。

つかお前が100年くらいレジ打ちの修行をした後で、あのレジのおばさんとレジ打ち勝負したとしても、100回中10000回負けるし、お前のレジ打ちなんかは、あのおばさんのレジ打ちの前ではへたくそなドジョウ掬いみたいなものです。

才能あるレジのおばさんにはそれ相応の給料を払ったほうが良い - コトリコ

なぜ勝てないと思うんだ? 10年もみっちり修行したら到達できる領域だとは思わないのか? なんで戦う前から負けを決めつけるんだ?*1

別に絵が描けなくたって、文章が書けなくたって、それが誰にも認められなくたって、死ぬ訳じゃあないけど、それを自分の心のよすがにしてきた人間には、自分にはその分野で活躍していくような技能も才覚(つまりは才能)がない、と気がつくことはとてつもないショックを伴う。

才能がない、ということに気がつくということ。

技能なら身につければいいじゃないか。才覚って具体的にはなんだよ。

才能という言葉に対して、目から鱗が落ちるような思いを最近した。

宮崎 お金集めは鈴木(敏夫)プロデューサーがやってくれるので何の心配もいりません。つまり、自分の才能の不足に苦しむのだと思います。

1日4時間しか寝なくてもスッキリしている頭とか、机の上の細かい絵がよく見える目とか、何時間指を動かしていても鉛筆を握っていても疲れない腕とかそういうものがないのです。

Business Media 誠:“ポニョ”を作りながら考えていたこと:「世界は美しいものなんだな」と感じてくれる映画を作りたい——宮崎駿監督、映画哲学を語る(後編) (2/4)

この宮崎駿の言葉はもの凄く俺の中に響いた。そうだよ、それだよ!という感じ。こんな具体的な「才能」という言葉の中身は初めて見た。

俺にも1日4時間しか寝なくてもフル回転する頭や、何時間椅子にすわってても痛くならない腰があれば、もっともっと生産性を高める事ができるだろうし、身につける技術のレベルも高くなるだろう。でも実際にはそんな「才能」は持ち合わせてない。ハタチ前後の時期なら「若さ」がその「才能」のように機能してくれたのかもしれないけれども。

あまりに距離が遠いと、大きさの感覚を失うというのはまあ理解できる。俺も昔コンピュータの素人さんに「あんたなら何ができても不思議じゃない」とか言われたことがあるが、いくらなんでもそんな万能選手じゃない。彼らには俺の書くスクリプトが魔法のように見えたのかもしれないが、実際には根性と気合いでとにかく急いで書き上げた泥くさいスクリプトだ。それなりに頑張ったのに「不思議じゃない」、つまり「できてあたりまえ」みたいに思われるのは非常に悔しい。

「あんなの俺には無理だ」なんて思うことはいくらでもある。でもやってみれば、思ったより簡単にできたりする事もホントによくある。気が遠くなるほど遠くて大きいものように思えても、近づいてみれば意外に近くて小さいものだったりするのだ。

魔法に見えるのはそこに近付いてない証拠でしかない。

才能なんて言葉はごまかしじゃないのか。天才少年もそれがおもしろくてハマってるうちに他人の数倍の練習量をこなしてただけじゃないのか。単なる体力不足や根性不足で体や脳味噌を動かす時間で負けてるだけじゃないのか。

俺は努力とか根性とかいう言葉が好きなわけじゃない。どっちかというと嫌いな方なんだが、それが必要になる局面があることは否定しない。最後の最後は根性入れて努力するしかない、ということはけっこうある。しないで済めばそのほうがいいんだけどさ、コスト的な意味でも。

反面、才能というものがあるのも否定しない。努力しなくても最初から身につけてるものは確かにある。でもそれを努力で身に付けられないという証左は無い。それに才能は枯れる事もあるが、努力して身につけたものは枯れることは無い。そもそも才能に頼ってる時点でプロとしては問題があるだろう。才能でやってることなんてのは、なんでそれができるのか説明できないしな。

そりゃ簡単に身につくわけじゃない。才能ある人だって結果を出すにはそれ相応の努力もしてる。才能が無いならその分も努力しなきゃいけないんだから、大変なのは当然だ。

ひところ、頑張らない生き方、なんてのが流行ったことがある。それはそれでいいと思う。でも頑張らないことを選択したなら、それ相応の結果は覚悟してしかるべきだ。

間違った頑張り方をしてる人もいたりするけどね。病気なのに休まず動こうとするとか、お前はがんばってどうやって休むか考えろとか言いたくなる。

とにかく正しいトレーニングを積めば、トレーニング手法を模索しながら進んで来た先人たちより早く同じ場所に到達できるはず。才能に頼りきりの奴なんて、すぐに追い抜ける。

俺は自分の才能は信じても、他人の才能は絶対に信じない。そんなとこに壁を作った時点で負けが確定しちまってる。

勝てない理由並べてるヒマや人を中二病呼ばわりしてるヒマがあるなら、どうやって追いつくか必死に考えて実践してたほうがずっと楽しいしな。

追記

10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に? | 独り言v6

トラックバックが届かなかったのだけども、この記事がとてもよかった。

最後に一言でまとめると、自分に言い訳する必要無しに10000時間続けられるものを探しなさい、ということだ。

10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に? | 独り言v6

この言葉は至言と言ってもいいと思う。

*1:いや元記事の主旨には同意するんだけどね。凄腕のレジ打ちはもっと儲かっていいはずだ

作者:KoshianX

更新日:2008年12月27日 20時0分

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ネタ探しは生活にうるおいが出るよね

先週末、第2回コーヒーオフに行って来た。前回同様おいしいコーヒーと甘味と共に雑談を楽しませていただいた。

初めましての方とも交流できたし、id:takerunbaさんとも会えたし、とても楽しかった。id:sakadonが「デジタルネイティブっぽい!」とか言われてたのには笑ったけどな。

そのコーヒーオフに参加してらしたid:ropparaさんの言葉がちょっと印象的で、「ブロガーの性でついネタを求めてしまう」というようなことをおっしゃっていた。

俺はあんまり「ブロガー」という自覚は無いのだけれども、10年くらいちまちまウェブに文章を書いて来たし、他のサイトさんからリンクを頂くとやはり嬉しいというのもあって、やっぱりネタを求めてしまう面というのはすごく理解できる。自分の書いたものをおもしろいと思って頂けるのは、文章でもプログラムでもやっぱり嬉しいし、楽しいしね。

そういう意味では5年程前から盛りあがって来た「ブログ」という潮流にひっかかったのは幸運だったとも思うし、おかげでこうして「ブロガー」の皆さんと交流も持てた。俺のサイトをウェブ日記と呼ぶかブログと呼ぶか単にウェブサイトと呼ぶかは好きずきでかまわんと思うが、まあ今の言葉でいえば「ブログ」であり「ブロガー」ということになるんだろうな。

日常の生活の中で「お、これは日記のネタにしよう」と思う場面というのはけっこうあるものだ。「夢でこれは日記のネタにしようと思ったところで目が醒めたんだが何をネタにしようとしたのか思い出せない」なんて言ってたのはid:inuだっけっか。

もう10年も書いてるものだからすっかり日常化してて忘れてたが、そういう「ネタ視点で日常を見る」というのは、日々の生活が楽しくなるのである。友達が言った何気無い一言や、街で見掛けたもの、世の中にはなんとネタが溢れてることか。

特に子供はネタの宝庫である。BBQでヤバい事言ってた女の子アホなこと言ってた某女子高生などなど、昔はよくネタにさしてもらったっけなあ。今もいろいろ楽しませてもらってるので、そのうちまたネタにするか。

世界はネタで溢れてる。ちょっとそういう視点で見てみるだけで、実に世界というのは愉快なものだということに気付く。

今はPhotoShareなんかもやってて、写真を撮る楽しみが増えた。おもしろいネタを見付けるとついつい写真をとってPhotoShareにあげてしまう。最近はあとで上げようと思ってて忘れてることが多いけどね。はてなダイアリーに張れるといいのにな。

ネタで溢れたこの世界とその住人に、メリークリスマス!

作者:KoshianX

更新日:2008年12月25日 13時29分

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