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トップ > 平家物語 > 平家物語 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2009年1月8日 1時)

徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎

  慶応四年(1868年)1月8日正午、第15代将軍・徳川慶喜を乗せた開陽丸が、江戸へ向けて出航しました。 またまた、鳥羽伏見の戦いの話題で恐縮ですが、日付優先のために年代がゴチャゴチャになっている我がブログも、本来なら続きの話は続いて書いたほうがわかりやすいわけで、こうなったら徹底的に~という事でお許しを・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、1月5日の錦の御旗の出現によって、諸藩の寝返り、八幡・橋本での敗戦を喫した幕府軍は(1月5日参照>>)、敗走しながらも、枚方あたりで防戦をくりかえしていましたが、6日の朝にになって、幕府軍の総大将である15代将軍・徳川慶喜の撤退命令が全軍に伝わり、その日の夜から7日の朝にかけて、続々と大坂城へと入城しました。 戦火をくぐり抜けて生き残った兵たちは、負けたとは言え、まだまだ、その士気は衰えていません。 そこへ、「たとえ、城が焦土となっても戦い抜こう!」という慶喜の檄(げき)が飛び、彼らは多いに奮い立ったのです。 なんせ、ここは難攻不落の大坂城・・・この時期の大坂城は、現在の大阪城と違って、天守閣こそ江戸期の落雷で失ったままであったものの、大手の多聞櫓(11月2日参照>>)をはじめ、天守閣以外のそれまでに失った建物は、ほとんど再建されていて、再び鉄壁の要塞となっていましたから、この大坂城さえあれば何とか持ちこたえられ、長期戦になれば、状況は変わると睨んでいたのです。 ところが、一昨日お話したように、慶喜は6日の夜に大坂城を抜け出してしまいます(1月6日参照>>)。 7日の朝になって、慶喜がいない事に気づいた将兵たちは、唖然、愕然、呆然・・・やがて激怒! そして、城内で・・・「慶喜は松平容保(かたもり)とフランスへ逃げた」などという噂が飛び交う中、そこへやって来たのは、あの榎本武揚(たけあき)・・・。 彼は、大坂湾に停泊中だった最強艦隊の旗艦である開陽丸(かいようまる)に乗船し、幕府艦隊の指揮をとっていたのですが、鳥羽伏見の戦いの敗戦を聞いて、その胸の内に反撃計画をたずさえ、慶喜に謁見するために大坂城へやって来たのです。 そう、つまり、二人はすれ違い・・・。 逆に、大坂城を出て大坂湾へ向かった慶喜は、武揚のいなくなった開陽丸に乗り、慶応四年(1868年)1月8日正午、江戸へと出航してしまったのです。 ・・・と、ここで慶喜は、大坂城に大きな忘れ物をしてしまいます。 いや、忘れ物というより・・・それは、2mもあるシロモノなので、わずかの側近だけを連れて大坂城を脱出した慶喜には、持ち出せなかったのかも知れません。 そのシロモノとは・・・神君家康公から受け継がれた徳川宗家の証し『金扇馬標(きんせんのうまじるし)』です。 馬標(馬印)とは、合戦の時に名のある武将が、大将の位置を示すために、その陣に掲げた目印で、有名なところでは豊臣秀吉の千成瓢箪(せんなりびょうたん)などがありますが、家康の場合は、その馬標が金の扇だったわけで、小牧長久手の戦いや関ヶ原の合戦などでも、この馬標を使用しています。 ・・・てか、そんな大事な物を・・・(;´д`)トホホ… ・・・で、その大事な大事な馬標の回収を承ったのが、江戸町火消し『を組』の大親分として有名なあの新門辰五郎(しんもんたつごうろう)だったのです。 彼は本名を町田辰五郎と言い、町田家が浅草寺の新門の警固をしていた事から、通称・新門辰五郎と名乗っていて、とび職のかたわらに町火消しの頭取となり、江戸の町の消火に一役買っていました。 しかし、45歳の時に、消火にあたっていた火事場で、有馬藩邸のお抱え力士とケンカ沙汰を起してしまい、石川島の人足寄場に送られてしまいます。 しかし、そこで一年も経たないうちに人足たちをまとめる事に成功し、その人足たちを率いて大火事の消火に大活躍した事から罪を許され、その上、子分3千人を束ねて、江戸市中の警固をおおせつかります。 しかも、娘が奥女中として仕えていた事で、慶喜のお手がつき、今回の慶喜の上洛にあたっては、愛妾の父として、200人の子分を連れて、慶喜の身辺警護にあたっていたのでした。 その慶喜の命を受け、もはや、いつ敵軍が攻めてくるかもわからない大坂城で、金扇馬標を手にした辰五郎は、一目散に大坂湾へ急ぎますが、彼が到着した時には、開陽丸はすでに出航していました・・・待っとったれよ!慶喜 そこで、彼は、子分20名ほどとともに、敵軍真っ只中の東海道をひた走り、陸路で江戸に届けたのです。 現在も、久能山東照宮博物館に所蔵される金扇馬標・・・これは、その時の辰五郎以下、火消したちの勇気のたまもの、命がけの大仕事の証しだったのです。  ←大事なものを忘れてはいけませぬ~ヽ(;´Д`ヽ)そう、応援クリックを忘れずにお願いいたしまする~    

作者: indoor-mama

更新日:2009年1月8日 6時37分

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幕末・維新歴史

側室40人に子供55人・在位50年~1位づくしの徳川家斉

  天保十二年(1841年)閏1月7日、江戸幕府・第11代将軍・徳川家斉が、69歳でこの世を去りました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 第11代将軍・徳川家斉(いえなり)・・・この方が、歴代将軍の中で最も長い50年間に渡る在位の期間中、「将軍としてどんな政務を行ったか?」と聞かれると、ちょっと考え込んでしまいますが、「何をしたか?」と聞かれると、即座に答えられます。 「子供をつくった!」 なんせ、それは歴代将軍の中でズバ抜けてトップの数・・・ 40人とも言われる側室の中から命中した16人に、28人の男の子と27人の女の子・・・なんと!合計・55人もの子供を作ったのです。 中でも、寛政八年(1796年)・享和三年(1803年)・文化六年(1809年)・文化十二年(1815年)・文政二年(1827年)・・・この5つの年には、年間3人。 さらに文政十年(1827年)の年には、年間に4人の子供を産ませています。 同じ学年にわが子が3人も4人もいたら、参観日はハシゴに次ぐハシゴ・・・運動会なんかビデオ回しっぱなし、三者面談で進路を迷ってるヒマもありませんがな! あまりに好色で、あまりに精力絶倫な家斉さん・・・あの質素倹約の寛政の改革を推し勧めたカタブツ老中の松平定信(6月19日参照>>)から「回数が多過ぎては体に良くない」と注意されるほどでした。 ・・・とは言え、この子づくりに関しては、ただ、本人が好きというだけではなく、実家から「子供を作れ!作れ!」と、かなりのプレッシャーをかけられてもいたようです。 なんせ、家斉さんは、あの御三卿(ごさんきょう)の一つであった一橋家から、後継者のいない第10代将軍・徳川家治(いえはる)の養子となって将軍を継いだ人・・・ この御三卿というのは、あの暴れん坊の第8代将軍・徳川吉宗が、将軍家に後継者がおらず、紀州出身で初めての将軍となった時、その後、自分の子孫以外に将軍の座を取られないために創設した、次男・四男・孫たちの、いわゆる分家(11月10日参照>>)でしたが、第9代と第10代は吉宗の長男の家系が将軍職を継いでいて、この第11代の家斉さんで、やっと一橋家に回ってきたのです。 こうなったら、ジッチャン・吉宗同様、今度は、一橋家以外へ将軍の座を渡してなるものか!となるわけで、そのためには、たくさんの子供を作って作って作り抜かねばならないのです。 なんせ、この頃は、子供の死亡率が大変高かったですから、たとえ無事に生まれても、成人するまで生きられるかどうか・・・現に、この家斉さんの子供たちも、無事成人したのは、55人のうち25人だけだったのですから・・・(それでも多いが・・・)。 ・・・とは、言うものの、将軍たるもの、第3代の徳川家光の時代から「子供を作れ!作れ!」とけしかけられている中で、家斉さんの55人はダントツ!・・・やはり、プレッシャーだけではない「アンタも好きねぇ~」というところがあったという事でしょう。 そもそも、17歳で薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の娘・茂姫を正室に迎えた時にも、すでに婚礼の前に手を出していたという噂があるくらい好きモノだったようですから・・・。 その振る舞いを注意したカタブツ・定信をクビにして、水野忠成(ただあきら)が幕閣に返り咲いて実権を握ってからは、もはや、注意する者もなく、酒池肉林の毎日・・・ しかも、毎夜、正室や側室のところに渡るだけではなく、昼間には大奥の奥女中たちの部屋のあたりをさまよい歩き、「イイ女がいないか?」「何かェロい情報はないか?」とチェックして回っていたなんて話もあります。 どこまで史実かはわかりませんが・・・ある時、奥女中たちが、大奥一巨漢の女中の事を・・・「あの娘が妊娠したら、あの太鼓腹はどうなるんだろう?」「さらに大きくなるのかしら?」と噂話をしているのを聞いて、早速、その巨漢の女中を寝所に呼び出して手をつけた・・・なんて逸話も残っています。 ところで、世継ぎを絶やさないためとは言え、そんな多くの子供を作った以上、産ませっぱなしというワケにはいきません。 55人のうちの、ほぼ半分の25人ではありますが、成長したあかつきには、それこそ、三者面談&進路相談・・・その先の見の振りかたを考えてあげなければ・・・ しかし、質素倹約が失敗した反動で、生活は贅沢三昧。 さらに、その後は賄賂に始まる腐敗政治が横行し、幕府の財政は火の車となり、いくら自分の子供とは言え、そうやすやすと新しい大名家を作るわけにもいかず、男の子は他の大名の養子に、女の子は大名に輿入れに・・・ 確かに、将軍の子供となると、養子として迎える大名にとっても名誉な事ではありますが、その大名にも何人かの子供がいて、すでに嫡男がいる場合は、けっこう迷惑な話で、中にはムリヤリ押しつけられたような人もいるとか・・・。 ただ、これには、大名たちと血縁関係を結ぶ事によって、より強固な関係づくりを計ろうとした、あるいは、そうやって経済的な負担を与えて、将軍家に反発できないようにした・・・という見方もあるようですが、もはや、傾きかけた幕府には、あまり効果がなかったみたいです。 ・・・で、結局、25人の子供の中の次男である徳川家慶(いえよし)が、彼の後を継いで第12代将軍となり、「オヤジに続け!」とばかりに励みまくり、果ては父親の側室にまで手を出しながら34人の子供をもうけたのですが、その中で成人したのは、たった一人・・・それが、昨年の大河ドラマで、篤姫のダンナとなった第14代将軍・徳川家定です。 そして、ご存知のように、家定には、子供は生まれずじまいです。 天保十二年(1841年)閏1月7日、その69歳の生涯を閉じた家斉さん・・・一橋家のために、55人もの子供を作りながらも、結局、その一橋家は、後継者がいなくなり徳川慶喜(よしのぶ)という水戸家からの養子をもらい、その慶喜は第15代将軍となって徳川幕府の幕を引く事になります。 なんとも皮肉な事です。  ←家斉さんにあやかって私も1位を狙いたいヽ(´▽`)/応援クリックよろしくお願いします    

作者: indoor-mama

更新日:2009年1月7日 8時23分

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江戸時代歴史

徳川慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家にあり?

  慶応四年(1868年)1月6日、鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の敗戦を聞いた第15代将軍・徳川慶喜が、大坂城を脱出し、江戸へ向かいました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 先一昨日の鳥羽伏見の戦い・勃発(1月3日参照>>)、昨日の幕府軍の敗走(1月5日参照>>)・・・。 そして、いよいよ本日・・・慶応四年(1868年)1月6日に、その敗戦を聞いた徳川慶喜が、わずかの側近だけを連れて、大坂城を脱出・・・いわゆる敵前逃亡するワケですが、昨日のページにもリンクをさせていただいたように、そのお話はすでに、昨年の1月6日に書かせていただいております(昨年の1月6日を見る>>)。 そこに書かせていただいたように、この賛否両論渦巻く慶喜の行動の真意は、おそらく、「今まさに、外国を相手にせねばならない時期に、日本人同士で争っている場合ではないが、このまま大坂城にいては戦いは避けられない」というところにあったと考えていますが、やはり、武家の大将としては、大勢の部下を残したままでの逃避は、「弱腰」と言われても仕方のないところではあります。 しかし、後日、そのような批判を受けなけらばならないようになる事は、さすがに、この時点の慶喜さんにも予想できたはず・・・なのに、彼は大坂城を後にしました。 状況を見る限り、周囲には目もくれず、強行突破とも言えるやり方で・・・。 そのかたくなな姿勢の背後には、何があったのでしょうか? おそらくは、戦争回避あるいは日本の分断を阻止・・・だけではない、彼なりの思想という物が存在したのではないか?と思っています。 それは、慶喜が水戸の出身であるという事です。 もし、慶喜のこの敵前逃亡を、「徳川家の将軍=幕府軍の大将としてあるまじき行動である」と批判するのであれば、もともと水戸家の坊ちゃんを将軍にした事こそが批判されるべき事なのでは?・・・ 本来、水戸家の人物は将軍になってはいけなかったのだと・・・そのキザシという物は、徳川家の最初の最初からすでに見え隠れしていました。 以前、水戸黄門さまのところで書かせていただきましたが(12月6日参照>>)、あの初代の徳川家康が、徳川将軍家の安泰を願って作った御三家・・・ 九男・義直の尾張十男・頼宣の紀州十一男・頼房の水戸 後継ぎがいない時や将軍家に危機が訪れた時に手助けするこの3つの分家ですが、この中で、水戸家だけが『定府』と呼ばれる特別扱い・・・。 水戸家だけがなぜ定府となったかについては、そのページでも書かせていただいたように、諸説あって定かではないのですが、その特別扱いが、単なるお世継ぎサポートだけの分家ではない事が想像できます。 それは、その水戸2代め藩主である黄門様こと徳川光圀の言動にも表れているように思うのです。 光圀が隠居して綱条(つなえだ)に藩主の座を譲ろうとした時、将軍・徳川綱吉の側近・牧野成貞が、綱条に苦言を呈したところ・・・「わが水戸家は、尾張・紀州の両家とは違い、一朝ある時は、将軍の名代として采配をふるう事を許されている家柄・・・この神君以来の格式は、綱条の代になっても変わらない」てな事を、堂々と本人に向かって直接言っているのです。 さらに・・・「水戸家にとって、主君は天皇家であって、徳川将軍家は、親戚の中の長に過ぎない」というような言葉も残しています。 しかも、これらの言葉が、徳川250年の間、批判される事もなく、抹消される事もなく、堂々と残っているのですから、そこに、誰も手を出せない特別扱いがあったという事でしょう。 もちろん、その特別扱いをした張本人は、御三家を作った家康で、神君家康公の特別扱いだから、誰も手を出せないのです。 ひょっとして、これは、一種の保険=二股をかけたのでは・・・? 確かに、家康は、徳川家の安泰を願ってはいましたが、まさか、本当に300年間もの長きにわたって、徳川が将軍の座に着き続けるとは、あの開幕の直後には思っていなかったはず・・・。 なんせ、天皇をあれだけビビらせた織田信長の織田家も、天下を丸ごと息子に残した豊臣秀吉の豊臣家も、2代目からは坂道を転げ落ちるように衰退していったワケですから・・・。 そこに浮かんだのは、家康自身が戦って目の当たりにした関ヶ原の合戦での現状・・・兄と弟が東西に別れて戦った前田利長・利政(8月8日参照>>)と妹婿の宇喜多秀家(8月6日参照>>)、そして、やはり兄弟・親子で別れた真田昌幸・信幸・幸村(7月21日参照>>)、さらに、本家と分家で画策した毛利輝元と吉川広家(7月15日参照>>)。 用意周到な家康が、これらの大名が行った「どっちか生き残り作戦」を見逃すはずはありません。 つまり、将来、再び関ヶ原のような天下分け目の戦いがあった時、二股をかけるための分家が水戸家ではなかったのか?という事です。 水戸光圀の時代から主君は天皇家であった水戸家・・・まして、慶喜は、その母も有栖川宮吉子(ありすがわのみやよしこ)様という皇族なのですから・・・。 水戸家から、将軍継承の家柄である一橋家に養子として入ったために、15代将軍となってしまった慶喜・・・ もし、本当に、家康が、まさかの時に本家とは別の道を選ぶ保険として水戸家を特別扱いにしたのだとしたら、慶喜は見事、その期待に答えた事になります。 ただ、本人=水戸家の人間が、その時の将軍だった事のほうが、家康の想定の範囲内ではなかったという事なのかも知れません。  ←「弱腰」と聞いて耳が痛い(u_u。)強くなれるよう、あなたの応援クリックを待っています    

作者: indoor-mama

更新日:2009年1月8日 2時36分

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幕末・維新歴史

戦場に翻る錦の御旗~鳥羽伏見の戦い・3日め

  慶応四年(1868年)1月5日午後2時頃、1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで、伏見方面の戦場に錦の御旗が掲げられました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 京都へ向かう幕府軍の隊列に、薩摩が砲撃を加えた事によって始まった鳥羽伏見の戦い・・・ここまでのお話は1月3日参照>>。 翌日の1月4日には、征討大将軍に任ぜられた仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう・後の小松宮彰仁親王)が、錦の御旗(みはた)を掲げて薩摩藩兵に先導され新政府軍の本営・東寺に入ります。 この錦の御旗は、あの後鳥羽上皇が北条義時を倒そうとした承久の乱(5月14日参照>>)の時や、後醍醐天皇が足利尊氏を倒そうと(5月25日参照>>)した時に掲げられたという記録をもとに、天皇の配下の軍である事を強調するために、岩倉具視が密かに用意していたもの・・・新政府軍が官軍で、幕府軍は天皇に刃向かう賊軍という事をはっきりと表したワケです。 この錦の御旗の威光が、この後、水戸黄門の印籠のように、まさしく、その威力を発揮します。 この4日には、早朝から反撃を試みる幕府軍でしたが、伏見でも鳥羽街道でも、苦戦を強いられます。 なんせ、未だ、前日と同じ縦列行軍・・・この期に及んで、まだ、強行姿勢をとれば、薩長は道を譲ると思っていたのでしょうか?・・・というより、幕府軍は諸藩の藩兵を寄せ集めただけの軍で、作戦らしい作戦も立てられておらず、統率のとれた集団は、かの見廻組と新撰組だけ・・・。 しかも、その見廻組と新撰組はご存知のように刀槍の集団ですから、最新銃器の薩長からは狙い撃ちされるのは必至・・・ただ数が多いだけではとてもたちうちできなかった・・・というところでしょうか。 やがて、薩長軍が優勢のまま迎えた慶応四年(1868年)1月5日午後2時頃、伏見の戦場に、ついに錦の御旗が掲げられます。 相手方の状況を、それほど把握していなかった幕府の諸兵たちは、その御旗を見て愕然とします。 上のほうの人はともかく、一般の藩兵にとっては、これはお国のため、良い事だと思いこんで戦っていたはずなのに、いつの間にか、自分が天皇に弓を向ける賊軍=極悪人になってしまっているのですから・・・。 逆に、当然の事ながら、薩長軍の士気はあがります。 さらに、それまで、薩長とともに戦場に出ていたものの、様子見ぃで戦闘に参加していなかった土佐藩兵は、この御旗を見るなり薩長軍に加勢・・・やがて鳥取藩兵も加わって、薩長は大いに力を増し、劣勢の幕府軍はしかたなく淀城への撤退を開始します。 淀城跡:京都競馬場で有名な京阪・淀駅から石垣が見える近さです・・・ちなみに、この淀城は、豊臣秀吉が側室・茶々(淀殿)のために建てた淀城とは別の物です。 淀城は、老中・稲葉正邦(いなばまさくに)の居城・・・大坂を出発した1月2日の夜に、幕府軍の本営として一夜を過ごした場所です。 その場所で態勢を立て直し、再び新政府軍と相まみえるつもりでした。 ところが・・・です。 幕府軍の兵たちが戻っても、淀城の城門はピッタリと閉ざされたまま・・・実は、この日、藩主の稲葉は、幕府の役職のため城を留守にしていたのですが・・・「藩主の許可がない限り城門を開ける事はできない」と、拒否されたのです。 もちろん、それは単なるいいわけ・・・錦の御旗の威光に負けて、淀藩も新政府軍に寝返ったのです。 幕府の兵たちは激怒して、城門を力ずくで壊そうそますが、とてもじゃないがムリ・・・。 城門を「開けろ!」「開けない!」1時間ほどの小競り合いの末、諦めた幕府軍の諸兵は、さらに南の橋本にある久修園院(くしゅうおんいん・くずおんいん)を本営として、ここを最後の抵抗拠点と定め、眠れぬ夜を迎えます。 久修園院:あたりが焦土となった鳥羽伏見の戦いの中、久修園院は残りました。 ここを破られたなら、もはや、敵の流れをせき止める場所はなく、そのまま大坂への侵入を許す事になってしまうのです。 一方の新政府軍は、幕府軍が去った淀城に入り、ここに配備されていた8問の大砲を手に入れ、5kmほど離れた幕府軍に睨みをきかせます。 しかし、翌・1月6日の昼近く、幕府軍は予想もしなかった場所からの攻撃を受ける事になります。 それは、淀川を挟んで、橋本の対岸にある山崎の地・・・ここは、あの豊臣秀吉が、本能寺で主君・織田信長を討った明智光秀と戦った、あの山崎の合戦(6月13日参照>>)のあった天王山の麓。 ここ山崎に布陣していた津藩が、対岸の高浜砲台から、いきなり橋本砲台場に狙いをさだめて砲撃してきたのです。 もちろん、津藩は、それまでは幕府側・・・慶応元年(1865年)から山崎の警固を任せれていたのですが、前日の夜に勅使(天皇の使い)の四条隆平(たかとし)が、津藩の代表に会い、新政府軍への寝返りを即していたのです。 敵は、北から来るものと思っていた幕府の兵は、この対岸からの攻撃に浮き足立ち、京街道沿いの寺や民家に火を放ちながら逃走・・・中には、農民に変装して、一目散に逃げる者もいたのだとか・・・ こうして、幕府軍最後の守りの地は破られました。 一方、この時、大坂城にいた将軍・徳川慶喜・・・3日・4日・5日と、刻々と伝えられる戦況は、おそらく予想外だった事でしょう。 度重なる敗北、諸藩の裏切り、そして、錦の御旗・・・しかし、この6日の日、慶喜は、大坂城に詰める将兵に向かって・・・「たとえ、城が焦土と化しても国賊を倒すまで戦おう!」と、徹底抗戦を表明します。 ところが、その夜・・・ご存知、慶喜の敵前逃亡・・・ 彼は、わずかの側近とともに、大坂城を抜け出すのですが・・・その日のお話は、2008年の1月6日【慶喜の本心は?】>>2009年の1月6日【原因は御三家にあり?】>>の二度に渡って書かせていただいておりますので、お好きなほうからどうぞ・・・ ★久修園院&橋本砲台場跡へのくわしい行きかたはHPの歴史散歩でどうぞ>>  ←お正月気分で、すっかりゴボウ抜かれの徒然日記です(*゚▽゚)ノ応援クリックよろしくお願いします    

作者: indoor-mama

更新日:2009年1月7日 22時35分

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幕末・維新歴史

薩摩の砲撃で戦闘開始!~鳥羽伏見の戦い

  慶応四年(1868年)1月3日、京に向かう幕府の隊列に、薩摩藩が砲撃・・・鳥羽伏見の戦いが開戦されました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 江戸市中で展開されていた薩摩藩のテロ行為に対し、取締りと称して、幕府軍が薩摩藩邸を焼き討ちしたのが、前年・慶応三年(1867年)の12月25日・・・。 その知らせが大坂城にいる第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)のもとに届いたのが12月28日で、「即刻、薩摩を討つべし!」と、城内が盛り上がる中、3日後の新年・1月1日には、その慶喜から『討薩の表』=薩摩藩への宣戦布告が発せられ、翌日の1月2日には、その『討薩の表』を朝廷に提出すべく、老中格の大河内正質(おおこうちまさただ)を総督に1万5000の幕府軍が、京を目指して大坂城を出立・・・と、12月25日のページでは、ここまで書かせていただきました(12月25日参照>>)。  大坂を出立した幕府軍は、その日の夕方に老中・稲葉正邦(いなばまさくに)の本拠地・淀城へと到着し、ここで一夜を過ごします。 そして、いよいよ翌・慶応四年(1868年)1月3日、幕府軍は、陸軍奉行・竹中重固(しげかた)率いる会津藩・鳥羽藩・新撰組などの伏見街道を進む本隊と、大目付・滝川具拳(ともあき)率いる桑名藩・大垣藩・見廻組などの鳥羽街道を進む別働隊との二手に別れ、それぞれ京を目指します。 一方、行く手を阻む新政府軍は5000・・・長州藩が中心の伏見街道方面担当は、御香宮神社に布陣し、薩摩藩中心の鳥羽街道担当は、鴨川に架かる小枝橋付近に布陣します。 双方ともに、すでに軍備の近代化を図っており、ライフル銃などの最新火器は導入済み・・・数の上では、断然、幕府軍のほうが有利でした。 しかし、新政府軍の目下の心配は、その兵力差ではありません。 新政府軍が何より恐れていたのは、これが薩長による私的な戦いと見なされる事・・・先日の12月25日のページにも書かせていただいたように、未だ政権担当能力のない朝廷は、その条件によっては、慶喜が新しい議会での最高責任者となる約束をしたりなんぞしています。 だからこそ、幕府軍は、朝廷に『討薩の表』なる物を提出しに行くわけで、本隊を率いる竹中は、幕府側が強行突破の姿勢をとれば、立ちはだかる薩長も道を譲るに違いないと判断していて、この日の正午頃には、「この隊列は、将軍・慶喜が入京するための先陣としての通行である」事を薩摩に通告していました。 しかし、彼ら、新政府軍にとっては、この戦いが単なる薩長の反乱ではなく、新政府が旧幕府に取って代わるクーデターでなくては困るのです。 なんせ、これが、薩長の私的な戦いだとなれば、多くの藩が幕府側につくかも知れませんし、そうなれば、弱腰の朝廷もどうなるものかわかりません。 そこで新政府軍は、総裁・議定・参与などを召集して緊急会議を開き、「幕府軍が撤退しなければ朝敵とみなす」事を決定させます。 やがて、幕府軍の隊列が新政府軍の布陣するあたりに到着すると、伏見街道と鳥羽街道の両方で・・・「このまま通行させろ」「朝廷の許可が出るまで通行できない」の小競り合いがはじまります。 そして、夕刻・・・午後5時頃、鳥羽街道にて強行突破しようとする幕府の隊列に、薩摩側が砲撃を開始し、これをきっかけに戦闘が始まります。 その時、一方の伏見では、御香宮に陣取る長州と、伏見奉行所に陣取る幕府軍とがにらみ合い状態でしたが、かの鳥羽街道での砲撃の音をきっかけに、こちらでも戦闘が開始されます。 鳥羽街道では、道を開けてくれるものと思って、2列の縦列で行軍していた幕府軍は、左右に兵を配置していた薩摩軍の集中砲火を浴び、またたく間に被害者が続出・・・さらに、砲撃の音に驚いた馬が奔走して、早くも統率を取る事が不可能な状態に陥るとともに、戦闘に長けた見廻組は、刀中心で銃砲の前には、まったく歯が立たない状況・・・。 以前upした丹波橋周辺の地図ですが・・・ その点、しっかりと陣取った伏見では・・・と言いたいところですが、本隊ゆえに兵の数が多く、狭い市街戦となってしまった事で、逆に身動きがとれなくなってしまってしました。 頼みの綱の新撰組でしたが、やはり彼らも刀中心・・・統率のとれた新政府軍は、彼らをかわして本陣の伏見奉行所に向かって銃砲の集中砲火・・・幕府軍は畳を並べて盾とし、反撃を繰り返しますが、やがて夜になる頃には、伏見奉行所そのものが炎上し、やむなく淀城へと撤退しました。 一方の鳥羽街道は、もともと薩摩側が優勢だったところに、さらに夜になって、昼間の会議で決定された「幕府軍が撤退しなければ朝敵とみなす」の一報が届き、薩摩側が官軍、幕府側が賊軍となった事で、薩摩は盛り上がり、幕府は落ち込み、その勝敗が決定的となってしまい、幕府軍は後方へと撤退します。 この日、戦況が気になって、伏見まで視察にやってきた西郷隆盛は、大久保利通へ・・・「明日は、錦の御旗を本陣にひるがえして、皆で盛り上がろうぜ!」と、喜びを隠しきれないご様子・・・。 そして、翌・4日、朝廷から征討大将軍に任じられた議定・仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう・後の小松宮彰仁親王)は、天皇から錦の御旗を授かり、その御旗を先頭に、新政府軍の本営・東寺へと向かう事になります。 この錦の御旗が、戦場にかかげられるのは5日の事・・・ やがて、御旗の威光によって、鳥羽伏見の戦いは、更なる展開を見せるのですが、そのお話は、やはり1月5日のその日ページへどうぞ>>。 (戦場となった伏見周辺の歴史散歩へはコチラからどうぞ>>)  ←鳥羽伏見の戦いがいよいよ佳境に・・・ヘ(゚∀゚ヘ)「コリャ楽しみだ」と思っていただけましたら応援クリックをよろしくお願いします    

作者: indoor-mama

更新日:2009年1月7日 22時29分

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幕末・維新歴史

徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎

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側室40人に子供55人・在位50年~1位づくしの徳川家斉

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徳川慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家にあり?

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戦場に翻る錦の御旗~鳥羽伏見の戦い・3日め

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薩摩の砲撃で戦闘開始!~鳥羽伏見の戦い

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徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎

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側室40人に子供55人・在位50年~1位づくしの徳川家斉

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徳川慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家にあり?

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戦場に翻る錦の御旗~鳥羽伏見の戦い・3日め

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薩摩の砲撃で戦闘開始!~鳥羽伏見の戦い

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